医師のみなさまへ

2021年2月10日

第4回 生命(いのち)を見つめるフォト&エッセー 受賞作品
一般の部【入選】

「桜の季節に」

髙野 妙子(50歳)栃木県

 桜の花が見ごろを迎えた今年の4月23日、母は88年の生涯を終えた。特別養護老人ホームに入所してから4年の月日が流れていた。職員の皆さんに看取られての最期であった。

 自分でも驚くほど母の死を冷静に受け止めている。あるいはこれから怒濤どとうのように悲しみがやってくるのかもしれない。後悔や自責の念に駆られることもある。息を引き取るその瞬間まで一緒にいてあげられなかったこと。ホームに入所してから一度も外に連れ出してあげられなかった事。数えきれないほど後悔が残る。それでも今は安堵あんど感のほうがまさっているのだ。

 母を特養に入所させた頃の私は精神を病んでいた。肉体的にも限界だった。母の介護をしながらの転職。新しい仕事で神経をすり減らす日々。家庭では子供の不登校の問題や夫とのすれ違いなど母の介護に正面から向き合う余裕など微塵みじんもなかったのだ。そんなことにはお構いなく母の認知症はどんどん進んでいく。徘徊はいかいも始まっていた。夜中に外に飛び出しては隣近所のインターホンを鳴らす。夕方になると自宅に居ながら家に帰ると言って外に飛び出す始末。私の知る母とは別人になってしまった。たまに見せる以前の母のような振る舞いもほんの一瞬で消え去った。

 母が入所した特養は田園風景の広がる緑豊かな郊外にある。母も気に入ってくれたはずだ。入所して数日経ったある日、相談員のMさんに母の様子を恐る恐る聞いてみる。

「母はご迷惑をかけていませんか?」

「お母さんは新しい環境に馴染なじもうとして頑張っていますよ。みなさん最初は帰りたいと言って騒いだり不穏になったりするものなんですが、お母さんは穏やかに過ごされていますよ。娘さんに心配をかけないようにと思ってるんでしょうね。立派ですよ。」

 涙があふれてきた。母が、私を気遣っているなんて。人を思いやる感情が母の中に残っていたなんて。自分のことばかりで母の気持ちに寄り添ってやることなんてできなかった。周囲からの批判の目を気にするあまり母をしかりつけてばかりいた自分。Mさんの言葉で母の行動の真意を考えてあげられるようになった。母の奇行が半分は人の為をおもってのことだったのかもしれないと。そう気づかせてくれた。

 母が体調を崩していた今年の3月。これまで元気に自分の足で歩いていた母はベッド上で過ごすことが多くなっていた。食も細くなりどんどん衰弱すいじゃくしていった。母の病状が気がかりでならなかったその矢先、私も入院することになる...。乳がんが見つかったのだ。同じ3月私は左乳房を切除した。病室から見える桜を見ながら私が退院するまで何とか母が無事でいてくれることを願っていた。

 世界中がコロナウイルス感染拡大により混沌こんとんとしていた、3月末、私が退院すると間もなく母の容体が悪化。特養の面会は15分と制限された。母のベッドを玄関ロビーまで運んでの面会となる。うわ言を言っては顔をしかめ苦しそうな母。高熱でうなされている為だ。手を握る事さえ躊躇ちゅうしょする。あっという間に15分が過ぎた。3日後の面会。この面会が最後となった。建物の中に入る事もできず、2階にあるベランダの、大きな窓ガラス1枚隔てた外からの面会となる。母は別人のように痩せこけ、もう死期が迫っているのがわかった。私は必死に何度も何度も、「ばあちゃん、ばあちゃん。」、そう呼び続けた。体に触れることはもちろん、最期のその時まで付き添ってあげることさえかなわなかった。

 母の死から1カ月ほどして相談員のMさんを訪ねた。満開だったホームの庭の桜の木はすっかり緑色の葉桜になっていた。4年間過ごしたホームでの母の荷物。たった1つの段ボール箱に収められていた。母が大事にしていた布袋様の木の置物だけが中に収まらず箱の上で微笑んでいる。布袋様の口元は、何やら汚れが目立つ。母が布袋様に食べさせようと煎餅や饅頭まんじゅうを口に詰め込んでいたのを思い出した。その置物を目にしながらMさんが続ける。

「お母さんはきっと娘さんの体調を気遣ったんでしょうね。娘さんが退院されて落ち着くのを待って、逝かれたんだと思います。全てわかっていらしたんだと思います。最後まで娘さんを想っていたんですね。」

 Mさんの声は確信に満ちていた。

 これからも桜の咲く季節になると母を、そして相談員のMさんの言葉を思い出すだろう。つらかった日々の記憶は桜の花びらの様にひらひら舞っていく。認知症になっても私を想ってくれていた優しくて強い母。そしてそう思わせてくれたのはMさんの何気ない言葉だった。

第4回 受賞作品

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生命(いのち)を見つめるフォト&エッセー