2019年5月1日
第2回 生命(いのち)を見つめるフォト&エッセー 受賞作品
一般の部【入選】
「いのちは無条件」
山之内 勉(52)鹿児島県
時々、姉の夢を見た。ストーリーはいつも同じだ。姉と私が
いのちは、無条件でいのちである。それを教えてくれたのは、今年還暦を迎えた姉、そして姉を支える医療介護従事者たちだった。
姉は生後5ヶ月で高熱とけいれん発作に見舞われ、脳性
姉の存在を知ったのは小学校6年生の時である。修学旅行前に保険証を学校に提出することになり、私はその家族欄に、8歳年長の知らない女性の名前を見つけた。母に問いただすと、母は私にいきなり平手打ちを食らわせ、そのまま外へ飛び出した。夕飯の時、私も父母も無言だった。姉のことは後日、親戚から聞き出した。それが姉との出会いだった。
事情は今では私なりに推察できる。当時、施設に姉を預けた父母は、周囲の人々から、娘さんを捨てた、と言われ、深く傷ついたそうである。時代のせいだけではあるまい。障害者施設襲撃事件などの報道を見ても、被害者の人となりをどう伝えるか、家族や記者、行政、医療介護従事者の苦悩が伝わってくる。
私とて同じである。姉がいます、たったそれだけのことを言えるようになったのは、ようやく30歳を過ぎてからだった。
その頃私は「きょうだいはいますか」と問われて「いません。一人っ子です」と答える自分自身のありように嫌気がさしはじめていた。きょうだいはいません。なんと残酷な言葉だろう。必死に生き延びてきた姉の人生の抹殺ではないか。姉を支える多くの医療介護従事者への侮辱ではないか。
そんな思いが日ごとに膨らんでいったある日、私は姉に会いに行った。誰にも相談せず、自分自身で決行した突然の訪問だった。このタイミングに意図はなかったが、意外な人から急に呼び出されたような感覚があった。
施設に着いた私はすぐには車から降りなかった。いまさら弟ヅラして見舞いだなんて。姉は私をなじるだろうか。それとも知らん顔をするだろうか。施設の人は一度も会いに来たことのない私をどんな目で見るのだろう。
病棟受付で刺を通じると、ああ、弟さんですね、と笑顔で看護師が言った。完全な不意討ちである。「弟さん」と呼ばれたのは生まれて初めてだったのだ。しかも、あまりに自然に、あっさりと、何の条件もつけずに。「きっと喜んでくれますよ」。看護師はこれまたさらりと言った。私は半信半疑だった。
初対面の姉の現実には絶句した。発症当時のまま成長が止まった小さな身体。湾曲し、けいれんしている四肢。空をさまよう視線。言葉は発せず、言葉で世界を把握することもできず、つねに歯ぎしりしながら何事かに耐えている表情。一度きりの人生のほぼすべてをこんな苛酷な状況で生きてきたのだった。
姉は一個のむきだしのいのち、として私の前に現れた。無防備ないのちとしてぎりぎりのところで踏ん張っている。にんげんにはこういう生き方もある。これでもにんげんであることが許される。いのちの灯をともすことが許される。そこに何の条件もない。だからあなたも無条件に弟であっていい。ずっとそうだったし、これからもそうであるはずよ。
「弟さんが来てくれましたよ。よかったですね」。看護師は姉に語りかけた。私は姉の手をそっと握り、変形した指のひとつひとつに触れ、てのひらを重ね、細い手首を包んだ。確かな脈を打っている。私と同じ世界に生きていることがわかる。妙なぐあいに身構えていたのは私の方だった。恥ずかしかった。
担当介護士が巡回してきた。「弟です。初めまして。姉がお世話になっております」。自分でも驚いた。それまで人生で一度も使ったことのないセリフが自然に口から出てきたのだ。姉のおかげである。姉が私を弟にしてくれた。当たり前のことなのに涙が出た。介護士は言った。「お顔が似ていると思いました」
私はここへ来てよかったと思った。いつか父母もわかってくれるだろう。いや、ひょっとすると、じつはひそかに、こんな日を待っていたのではあるまいか。
姉との初対面を果たしてから、夢はあまり見なくなった。こんど見るなら、もう話はしなくていい。するなら、こんな会話がいい。お互い、大変だったね。そうですね。しぶとく生きなきゃね。