2022年2月10日
第5回 生命(いのち)を見つめるフォト&エッセー 受賞作品
一般の部【入選】
「たしかに想いは紡がれている」
金田 紀子(42歳)大阪府
わが家の3人目の子どもが生まれた時、家族はみんな悲しみの最中でした。3日前に義母が亡くなったばかりだったからです。
義母は、私が主人と結婚する前から、病気と闘っていました。夜中に意識を失い、救急病院に連れていったことは数知れず、医者からは「生きているのも不思議なぐらいだ。」と言われていたほどです。
主人は、高校生の時に父親を亡くしました。それから義母は、女手一つで子どもたちを育ててきましたが、いつも穏やかで、前向きで、人の悪口を決して言わない人でした。
そんな義母との思い出話が、たくさんあります。
ロックバンド「レミオロメン」と、メジャーリーガー「ダルビッシュ」をちゃんと言えないこと。違うとわかっていても、どうしても「レミオメロン」「レミオメロン」、「ダビリッシュ」「ダビリッシュ」と言うので、涙をながして笑ったことがありました。
新宿の大きな交差点を、義母と2人必死に渡ったこと。義母は歩くのがものすごい遅い人でした。緊張しながら、信号が青になるのと同時にスタートダッシュしましたが、とうてい青のうちに渡りきれず。東京のど真ん中で、二人三脚をしているかのような私たちが、おかしくて、おかしくて。大笑いしながら2人で必死に渡ったことがありました。
思い出すのは、笑った顔ばかり。怒ったことは、一度もありませんでした。
ある日、こんなことがありました。車で出かけていた時、タクシーが、私たちの車の前に無理矢理割り込んできたのにも関わらず、運転手が「ばかやろう!」と叫んできました。私は、ムカッとしましたが、義母は、
「きっと会社の上司に偉そうに言われてばかりなんかもしれんよ。言わせてあげたらいいの。そんなんで、こっちも同じようにイライラしてしまったら、もったいないよ。」と。私は、その言葉を聞いて、いやな気持ちをスーッと消すことができました。
私たちが結婚して10年たった頃、義母は入院する日が続くようになりました。そんな中、私たちはなかなかできなかった3人目を授かりました。義母は病院のベッドで、
「赤ちゃんの顔を見るまでは、がんばらないと。」と、力強く言いました。私たちも、義母ががんばる糧になるのではないかと、このタイミングで授かった事の意味を感じていました。
義母は、ボロボロの体で懸命にがんばりましたが、次入院したら退院は無理だろうというところまできていました。それでも、何度も奇跡を起こしてきた義母です。心のどこかで、絶対乗り越えると思っていた私は、それからも、
「ほら、あかちゃん動いてるよ。会えるのを楽しみにしてるよ。だから、がんばって!」
「もうすぐ生まれるからね。だから、がんばってね!」と、何度も何度も励ましました。義母は、「うん、うん。がんばるね。」と、穏やかな顔で言いました。
一度、今まで弱音をはかなかった義母が、ぽそっと言ったことがありました。
「赤ちゃんと会うのは無理かもしれんな。」
それでも、私は、
「大丈夫。絶対会えるから、がんばって!」と、言い続けました。
ある朝、病室にいくと、義母の意識はなく、話しかけても答えてくれませんでした。息が荒く、とても苦しそうでした。今まで見たことがない義母の姿をみて、ようやく私は気づきました。(私ががんばらせ続けていたんだな。もう十分なほどがんばっていたのに)と。
「もうがんばらなくていいよ。」
ようやく私は、お義母さんに言ってあげることができました。次の日、義母は静かに息をひきとりました。
それから3日後。元気な女の子が生まれました。義母が亡くなってから、遺影を眺めては、涙が勝手に流れる日々でしたが、すやすや眠っている我が子を見ると、自然と笑顔になりました。家族や義母を慕っていた友人も同じように笑顔になりました。きっとこれは義母が望んでいたことなんだろうな。
そして月日は経ち、あの時生まれた赤ちゃんは、もうすぐ5歳になります。お友達と一緒に遊んでいると、お友達のお母さんから言われたことがあります。
「Uちゃんは、優しくて、お友達の悪口を絶対言わないんだって。」
それを聞いて、すぐに義母の穏やかな顔を思い浮かべました。
お義母さん、あなたのその想いは、子どもたちにたしかに紡がれています。
第5回 受賞作品
一般の部: 【 厚生労働大臣賞 】
【 日本医師会賞 】
【 読売新聞社賞 】
【 審査員特別賞 】
【 審査員特別賞 】
【 入選 】
【 入選 】
【 入選 】
【 入選 】
中高生の部:【 文部科学大臣賞 】
【 優秀賞 】
【 優秀賞 】
【 優秀賞 】
小学生の部:【 文部科学大臣賞 】
【 優秀賞 】
【 優秀賞 】