2022年2月10日
第5回 生命(いのち)を見つめるフォト&エッセー 受賞作品
一般の部【入選】
「生命守られて」
鈴木 久子(81歳)京都府
「命の恩人」と世間で言うけれど、私も母からそう聞かされてきた人がある。子どもの頃から「あんたには2人の命の恩人がおられるんやで。」と。
それは戦争末期に流行したジフテリアに感染したのをいち早くみつけて下さった小児科のY先生とジフテリアの血清を提供して下さった耳鼻科のO先生だという。
昭和19年12月、私は5歳。高熱を出し声も
その間、何日が経っていたのか、万策尽きた思いで母は再度耳鼻科のO先生を訪ねた。血清のことは最初にお願いをしてすでに無いことはわかっていたが、私が中耳炎をおこす度に通い、ちゃこちゃんと愛称で呼んで
その年は終戦前夜の子ども心にも暗い印象の寒い冬であった。母の居ない留守宅では兄姉たちはわびしい正月をすごした。入院中の私は空襲警報の度に母に抱かれて裏山の防空
血清と手術によってジフテリアは治癒し、1月半ば退院の日を迎えた。父の退社を待ってのことか、夜の帰宅であった。父が乳母車を押し、母がそれに寄り添って夜道を歩いた。その夜の満天の星は命の峠を越えて
その後長い年月を経て、私は高校卒業以来離れていた郷里に帰り10年に亘り両親の介護をした。命の瀬戸際を見守ってくれた両親の介護は必要ならば私がしたいと思っていた。戻った郷里で介護をしながら改めて自分の育った町を眺めることとなった。父との遠出の散歩の時には農村部の古い公会堂の土壁に遠い昔に亡くなられている小児科Y医院の看板が忘れられたように残っており、消えかけた先生の名があった。口
父は生前あまり感情をあらわにする人ではなかったが、書き残したものの中に「あの時のことを思い出すと今も涙である」と私のジフテリアのことを記していて、それは消え入らんとする小さな命をみつめていた自分であり、その時を救って下さったO先生の苦しい決断を思っての気持ちであったろうと思う。
この10月、82才となる私のささやかな生涯。されど多くの人たちによって守られた命である。おろそかにはできないのだとあらためて思うこの頃である。
第5回 受賞作品
一般の部: 【 厚生労働大臣賞 】
【 日本医師会賞 】
【 読売新聞社賞 】
【 審査員特別賞 】
【 審査員特別賞 】
【 入選 】
【 入選 】
【 入選 】
【 入選 】
中高生の部:【 文部科学大臣賞 】
【 優秀賞 】
【 優秀賞 】
【 優秀賞 】
小学生の部:【 文部科学大臣賞 】
【 優秀賞 】
【 優秀賞 】