医師のみなさまへ

2024年2月21日

第7回 生命(いのち)を見つめるフォト&エッセー 受賞作品
一般の部【読売新聞社賞】

「いずれの道」

 西川 かつみ(58歳)京都府

 野菜ジュースで始まる朝食から自家製お弁当、夕飯も毎食手作り、お酒もたばこも口にしなかった。睡眠不足と少し働き過ぎという以外、病気になる理由が思い当たらなかった。なのに......。

「乳がん? ステージⅣ? 骨転移? 何それ?」

 医師より伝えられた瞬間、悲しみより、怒りに近い感情が口から吹き出しそうになるのを必死でこらえた。平成31年の盛夏。

「先生、末期がんって? 私まだ働けます!」

 主治医は黙したまま、CTの画像を指さし、

「右胸全体の白い蜘蛛くもの巣のような影がそれです。外科的に切除が大変難しい。すでに骨にもリンパにも転移しているので、化学療法でお薬による治療となります。延命目的の治療となります。」

「延命って......私は死ぬのですか。」

 質問は声にならず、ただ唾を飲み込んだ。

「余命宣告でしょうか?」

 カラカラになった喉から、言葉を絞りだした私を、気の毒そうに見つめる主治医と看護師さん達がいた。部屋の壁が灰色に揺れて、私は意識が遠のき始めたのを感じた。

 

「大丈夫ですか?」

「大丈夫じゃないようです。この先、どうしていったらいいのか。凄く混乱しています。」

 そこまでいうと、せきを切ったように、喉の奥から嗚咽おえつが込み上げた。奥歯でこみ上げる嗚咽をかみ砕こうとするのに、大きな嗚咽の塊が勢いよく押し出された。

 子どものようにしゃくり上げる私の右手を、看護師さんは強くにぎってくれた。

「一番好きなことをされるのも良いですよ。」

と声をかけてくださった、優しい慰めの声になぜかは分からない苛立ちと絶望感。自分でも不鮮明で理解不能な感情が涙を押し戻した。

 次の通院日まで、私は人生で初めて引きこもった。スポーツドリンクだけしか喉を通らず、布団から起き上がる気力もなく天井を眺めて過ごした。死んだように生きた。

 私が過ごした30年は高校数学教師として、受験指導にあけくれた30年だった。些細ささいな成績の差で、内申点に差を付けた。その子の明るい素直さも、内に秘めた素晴らしい才能も、まぶしい経験も、数学の成績に加点することはできなかった。初任の頃、こんなに偉そうに人を判定するなんてと思った心も、年を重ねるにつれ、罪悪感は薄れていった。

 闘病から1年して、私の両足の足首から先と、利き腕の右手の親指は薬のせいか、麻痺まひがひどく、走ることも、鉛筆を握ることにも苦労するようになっていた。

「身体、赤点。」

「学力も最近難問解いてないから。」

 自嘲じちょう気味に笑うと、涙がこぼれた。

 ふと、障害者の施設でずっと暮らしている姉の顔が浮かんだ。闘病に入ってからは、自分の事ばかりで、会いにも行けなかった。ずっと昔、姉を助けるために養護学校の先生になりたいと作文に書いて、参観日にそれを見た母が凄く喜んでくれたことを思い出した。胸がじわっと温かく緩んだ。姉のことを人に話しづらいと感じた若かった日の自分を恥じた。自分がどの道に生まれたのか、古い記憶が教えてくれるような気がした。

「いずれの道も死にいたるなら、どの道の上で私は死にたいのか?」

 自分に問うた。突然、特別支援教育の勉強がしたいという思いがこみ上げた。声に出してみると、それは胸に染みた。

 私は通信制大学に入学手続きをとった。ただ毎日を、したいこと、精一杯今できることで埋め尽くしたいと思った。 

 日々、むさぼるようにテキストと参考書に没頭した。試験を無事に終え、教育委員会で交付された免許状を見せに、久しぶりに姉の施設へ行った。言葉が十分理解できるはずの無い姉が、満面の笑みで私を抱きしめてくれた。

 時を同じくして、主治医が定年退職のため、新しく主治医を探さなくてはならなくなった結果、生存率がとても高いと評判のがん専門の病院に転院した。笑顔の優しい院長は、
「私もがん患者。一緒に頑張りましょう。」
と言ってくださった。そこでの薬が体に合ったのか、がんの勢いを示すマーカー値はじりじりと下がり続け、半年後の秋には、正常値にまで改善、体調も以前の状態に戻った。奇跡だと思えた。でもこの先も再発や悪化があるかもしれない。しかし、もう良いと思った。

「いずれの道もあの世に続く」のなら、私は自分が納得した道の上で、今日という日を精一杯に幸せに生きている。生きていこうと主治医と決めたのだから。

第7回 受賞作品

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