医師のみなさまへ

2023年2月20日

第6回 生命(いのち)を見つめるフォト&エッセー 受賞作品
一般の部【日本医師会賞】

「最後の贈り物」

池田 康子(63歳)長野県

 夫が急逝して3度目の夏が過ぎました。

 2019年、夫は還暦を迎え、3月末で定年となりましたが、再任用で引き続き高校教師として働いていました。その年の夏休み、いつものように学校に行き補習授業をやり、午後には顧問をしているソフトボール部の指導をグラウンドで行っていました。夕方、少し具合が悪そうに帰ってきた彼は「軽い熱中症みたい。」と話していました。暑い夏でした。

 でも、翌朝になっても症状は改善せず、近くの医院に行ったところ総合病院へ救急搬送されました。発熱があり、肺炎と頻脈性心房細動がみられるということで、2週間ほどの入院が必要と説明されました。実はこの時、私は少しほっとしたのです。多少疲れていても「大丈夫だ。」と言って仕事に出ていく人なので、しばらく病院に閉じ込めてもらえば少しは休養できるのではないかと思ったのです。

 ところが、その夜「脈が取れなくなった。」と病院から急変の知らせがあり、慌てて駆け付けた私が見たのは、心臓マッサージを施される夫の姿でした。私は何が起こったのか理解できず、ただ呆然と立ち尽くすだけでした。後に、甲状腺クリーゼによる心停止だったと聞かされました。その後、瀕死の状態で、人工心肺装置のある大学病院高度救命救急センターに再搬送されました。もともと体力があり丈夫な人だったので、翌日には心臓の動きが戻り、人工心肺を外すことができました。

 しかし、心臓の動きが微弱で、血液循環が滞っていた時間が長かったため、脳をはじめとする多くの臓器が受けたダメージが大きく、集中治療室で18日間頑張った末、多臓器不全で亡くなりました。私にとっては、まさに青天の霹靂へきれきのような出来事でした。

 夫の死によって私の周りの景色は色彩をなくし、モノトーンの世界へと一変しました。耳に入る音はすべて雑音に聞こえ、誰かに気持ちを伝えることもできませんでした。インプットもアウトプットもできず、固まった心で「何でこんなことになったのだろう」と考え続けました。私がもっと気をつけていればと自分を責め、病院に入院していながら何故助けられなかったのかと医師を恨み、何故はじめから大学病院に搬送してくれなかったのかと救急隊員を恨み、向けるべき矛先のわからない憤りで私の心は荒れ狂っていました。

 そんな私の心に平静を取り戻すきっかけとなったのは1冊の本でした。以前、図書館にリクエストしていた本が、ようやく私の順番になって届いたのです。とても本を読む心境にはなれませんでしたが、読書好きだった夫の声が聞こえた気がしました。「眠れないなら眠くなるまで本を読んだらいい。俺の読書灯使っていいよ。」と。こうして、眠れぬ夜の読書が習慣になっていきました。そんな中、ある本にこんな文言を見つけたのです。
『もとより寿命なるものは人知の及ぶところではない。最初から定めが決まっている。土に埋もれた定められた命を、掘り起こし光を当て、よりよい最期の時を作り出していく。医師とはそういう存在ではないか。』

 胸にストンと落ちるものがありました。

 集中治療室で夫を見守った18日間は、沢山の不安を抱えて薄氷を踏むような辛い日々でした。反面、社会人となり、家を出てそれぞれの場所で、それぞれの生活を送っていた3人の娘たちが、毎日面会時刻になると集まってきて、意識が戻らないまま横たわる夫のまわりを取り囲み、声をかけ、体をさすり、時には思い出話に花を咲かせ......家族5人があんなにも長い時間、一緒に同じ空間にいたことは、近年あまりなかったことでした。そして、夫の死が近づいた頃、看護師さんが「血圧が次第に下がってきていても、ご家族が見えるとまた上がり始めるんですよ。」と教えてくれました。意識がなくても、彼には私たちがそばにいることが分かっていて、もっと一緒にいたいと頑張り続けているのだと思いました。大きな勇気と生きる力をもらった気がしました。

 あの18日間は、夫が私たち家族に残してくれた最後の贈り物だったのだと思います。そして、その時を作り出してくれたのは、最後まで諦めずに夫の命のバトンをつないでくださったすべての医療関係者の皆さんでした。

 あれから3年以上の歳月が流れてしまいましたが、今ようやく心からお伝えしたいです。「本当にありがとうございました。」と。

(文中の引用文言の出典「神様のカルテ」 夏川草介著)

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