母の携帯電話が鳴ったのは、2月末の日曜日の夜だった。祖父が転倒して骨折し、救急搬送されたという内容だった。母と僕が病院に到着した時、既に祖父は病室のベッドに横になっていた。診断は胸骨骨折。救急車という言葉を聞いた時は驚いたが、骨折程度で済んでよかったと、僕は内心ほっとした。しかし、祖父は血液中の酸素量が少ないという理由で酸素吸入を行っていた。また、看護師が体に手を触れるだけで痛がり、悲鳴を上げた。付き添っていた祖母と母の表情はとても硬い。「やばいのかな。」僕は不安を抱いたが、周囲に漂う重々しい空気が、自然と僕を黙らせた。
「もう二度と家には帰れない。」その時、祖母も母も覚悟したそうだ。それは、一時的な骨折以上に深刻で重い問題だった。足の悪い祖父は杖を使用し歩行していたが、骨折をきっかけに寝たきりになる可能性が大きいという。祖母と二人暮らしの祖父は、寝たきりになったら、祖母の手を煩わせないために、施設への入所を考えていた。そして、その時期が予想以上に早く訪れたと、母たちは動揺していた。
骨折による痛みは数日で引いたが、呼吸状態は悪く、祖父は安静を強いられていた。母は毎日の様に付き添っていたが、僕も少しの時間を見つけてお見舞いに行った。病室に入ると、祖父は目を閉じていることが多い。しかし、その厳しい表情から寝ているのではないことがわかる。眉間にしわを寄せ、じっと耐え忍んでいる様に見えた。元々聴力が殆どない祖父と、僕は多くを語り合った経験がない。だから、大好きな祖父を目の前にしても、その表情から心情を探ることは難しかった。「何を考えているのだろう。ベッドという狭い空間に縛られていることが苦痛なのかな。」と、僕は想像した。祖父は、歩行こそ杖の力を借りたが、その他の事は自身で積極的に行っていたからだ。あの元気だった祖父が、退院への意欲どころか生きる気力さえも失っている。その様子に僕は驚いた。生活環境の変化が人に及ぼす影響は、とても大きいのだ。
入院して10日。状況は変わった。呼吸困難の原因を胸骨骨折による血胸(肺に血液が溜まること)と判断した医師が、治療として肺穿刺を行うと、家族に説明した日だ。レントゲン上、肺に影が認められたという。母は、日ごろからの様子で、肺の影は骨折によるものではないと感じ、その思いを医師に伝えた。「酸素濃度の低下は以前から指摘されていたし、少し歩くだけで息切れがしていました。」医師は、母の言葉に親身に向かい合ったという。入院前の祖父の様子を丁寧に聞き取った結果、追加の検査を経て、肺の影は心不全により貯留した水だとわかった。すぐさま利尿剤による治療が開始され、みるみる祖父の状態は回復に向かった。加えて、ベッド上で排泄をしたくないと言う祖父の希望を受け入れ、ポータブルトイレを脇に設置。退院に向けての、リハビリによる歩行訓練も開始された。「ADL(日常生活動作)拡大に向けてのリハビリを行い、自宅での生活に戻ることを目標にしましょう。」医師の言葉は、家族全員の心に希望を与えた。
僕は今まで、医師の役割は病気を治すことだと思っていた。しかし、祖父の主治医は身体の回復を目指すだけでなく、祖父及び家族である祖母や母の心にも寄り添い、生きる基盤となる退院後の生活まで考えてくれた。また、祖母の心身を気遣い、会う度に「無理しないで自分を大切にね。」と声をかけたそうだ。
祖父の入院で、僕は「生きる」意味を考えた。命の灯火が尽きぬよう守られていたとしても心までは満たされない。自らが望む生活環境の中、自らの意思で生きる意義を見いだすことが、人間として幸せに生きることなのだ。身体面、精神面、社会面でのバランスがとれてこそ、明日に向かう意欲がもてると知った。
入院して約1か月が過ぎた。季節は春に変わり、僕は小学校の卒業式を迎えた。僕の学生服姿を見たがっていた祖父のため、卒業式が終了したその足で、お見舞いに行った。この日の訪問は、祖父には内緒。サプライズだ。学ラン姿で病室に入ると、祖父の表情は一瞬の驚きの後、直ぐに満面の笑顔に変わった。「なおちゃんは、おじいちゃんの生き甲斐だよ。ありがとう。ありがとう。」
何度も言い、嬉しそうに卒業証書を眺めた。
退院祝いは、中学入学祝いと共に行うことができた。入院当初は諦めかけた社会への復帰。これも医師のお蔭だと感謝している。入院を機に歩行器を使用することになった祖父。しかし、慣れ親しんだ自宅での生活は、祖父を再び笑顔にした。病気の治療に関しては、医学的な知識をもつ医師が活躍する。しかし、患者が生きてきた長い歴史と生活における膨大な情報量は、家族に勝るものはない。医療者と患者・家族が同じ一つの目標に向かいチームワークをもってこそ、最高の結果となる。
僕たちの心に寄り添ってくれた医師の様に、僕も今後は祖父の言葉にもっと耳を傾ける。さらに元気に、長生きして欲しいと願うから。