10年以上前からいつ死んでもいいように遺書を書いている。なかなか死なないのでもう改訂版4刷になってしまった。
普通、遺書というのは死期を察した人が絶望感の中で書くもんだから暗くて悲しいものである。私は今のところは死ぬ気は全く無いのだが、時々山に登るので崖から落ちるか熊に食われて一気に死ぬ可能性はある。また運転も下手なので壁に激突して死ぬ可能性もゼロではない。そういう訳で万一に備えて書いているだけなんで、決して悲しい内容ではない。むしろ自分で読んでいても面白い。
私はそう付き合いが多い方ではないが、それでも家族の他に親戚や同級生や仕事関係などを入れると20人以上は関係者がいることになる。遺書を書くのはいいが、これだと家族にだけ読まれてそのまま棺桶に入れられ焼かれてしまうかも知れない。それは困る(せっかく書いたのに......)。
葬式のセレモニーで喪主のあいさつの前に友人代表とか仕事の関係者による弔辞というのがある。私の生前の生き方をまとめてくれてありがたいのであるが、この担当が誰であっても、私の全てを知っているわけではないのだ。私のこと、私の付き合いの全てを知っているのは私しかいないのだ。私が弔辞を読んだらこれは完璧ではないか。当人は弔辞を読んではいかんという法律は無いし、死んだ当人の弔辞ほどうけるものはないのではないか。司会者が「弔辞、前田修司」なんて言ったら会場がざわめくであろう。あーワクワクする。
こんなことを書いていて一番ムッとくるのは死神ではないかな。死神は仕事上、人が死にたくないと泣いても、遺族が嘆き悲しんでも、可哀想とは多分思わないのであろう。可哀想なんて思ってたら死神なんてやってられないもんな。人が悲しむのを見てニタっと笑うようなやつなんである。多分すごーく嫌なやつなんであろう。
そういう死神がこんな弔辞を書いてるやつを見たらどう思うであろうか? 多分「この野郎」と思うであろう。「こいつは死を何だと思っているんだ! 思い知らせてくれん!」なんて言うかも知れない。でも思い知らせたら「この野郎」の思いどおりになるわけなんで、それもできず地団太を踏むことになるであろう。ばーか(ちょっと言い過ぎたかな......)。