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令和8年(2026年)5月5日(火) / 南から北から / 日医ニュース

癒しの両生類イモリ

 日々の診療に追われる中で、私にとって心を和ませてくれる存在がいる。アカハライモリである。水槽の中をゆったり泳ぎ、時にじっと水草の陰に身を潜める姿を眺めていると、慌ただしい時間が緩やかに流れ出すような感覚になる。犬や猫のように直接的な愛嬌(あいきょう)を振りまくわけではないが、その静かなたたずまいが、かえって深い癒しを与えてくれるのである。
 イモリは両生類の一種で、水陸両方を行き来しながら生活する。赤い腹部の模様は警告色であり、捕食者への防御の役割を果たす。実際にイモリの体内にはテトロドトキシンが含まれており、外敵にとっては強力な毒となる。人にとっても決して無害ではないが、観賞用に飼育する分にはその穏やかな性質から長年親しまれてきた生き物でもある。
 このイモリには医学的・科学的な観点からも興味深い側面が多い。最もよく知られているのは、その驚異的な再生能力であろう。尾や四肢はもちろん、眼の水晶体や心筋の一部に至るまで再生できることが報告されている。この特性は、再生医学や組織工学の研究において重要なモデルとなってきた。損傷した臓器や組織の再生を目指す現代医学にとって、イモリはまさに自然が与えてくれた示唆に富む存在と言える。
 更に興味深いのは、イモリの「恋愛化学物質」である。雄のアカハライモリは繁殖期に「ソデフリン」と呼ばれるペプチド性フェロモンを分泌し、尾を振って雌に送り届ける。この物質は雌の受容体を刺激し、交尾行動を促進する。
 ここで注目すべきはその命名の由来である。研究者は『万葉集』に収められた額田王(ぬかたのおおきみ)の一首―「茜さす 紫野行き標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る」―から着想を得て、雄が尾を振って雌を誘う姿を「袖を振る」仕草になぞらえたのである。科学的発見に古典文学のエッセンスを重ね合わせるセンスに、私は深い感銘を受けた。ソデフリンは、単なる生物学的現象を超えて、文化と科学の架け橋となっているように思える。
 イモリはまた、日本の民間伝承の中でも独特の役割を担ってきた。江戸時代には「イモリの黒焼き」がほれ薬として流布し、粉末にして飲ませれば相手の心を引き付けられると信じられていた。もちろん科学的根拠は無く、むしろ毒性を考えれば危険極まりない行為である。しかし、人々がイモリに「恋を成就させる力」を投影した事実は、フェロモン研究が示す科学的知見と奇妙に響き合う。
 一つの生物が、科学と民間伝承の両面から人間の想像力を刺激してきたことは実に興味深い。
 私にとってイモリは、単なる飼育対象ではなく、診療の合間に心を落ち着けてくれる存在であり、同時に医学・文化を結び付ける象徴的な生き物でもある。彼らを眺めていると、医療の現場で忙殺されがちな日常の中でも、自然や生物に目を向けることの大切さを思い出させてくれる。
 癒しと学びを同時に与えてくれる両生類イモリ。水槽の中に静かにたたずむその姿は、私達医師にとっても、心のバランスを整える良きパートナーとなり得るのではないだろうか。

愛媛県 新居浜市医師会報 829号より

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