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令和7年(2025年)2月5日(水) / 南から北から / 日医ニュース

父の話

 亡くなった父のことを思い出すことが最近よくある。
 僕は56歳になったが、父は今の僕ぐらいの歳でそれまで勤めていた地元の簡易郵便局を退職した。簡易郵便局の合併により業務内容が大きく変わることになり、早期退職したようだ。僕達子どもの学費や老後の生活費もある程度めどがついたのだろう。当時の田舎の郵便局の仕事は楽なもので、郵便の配達と回収、その後の仕分けで1日が終わる。山奥の配達先があるので、バイクで出掛けて、昼は配達先の軒先を借りて世間話をしながら弁当を食べていた。定時には家に帰り畑仕事をしていたが、職場で同僚と酒を飲んでから帰ることもよくあった。
 そんな父も保険の仕事が回ってきた時は、大変そうだった。保険を理解し、他人に勧めてお金を払ってもらわないといけない。ノルマもあっただろう。冗談が好きで、誰とでも気軽に話し、お調子者だった。そんな父には保険の勧誘は、どこか後ろめたさがあったのかも知れない。今思えば鬱(うつ)のようになっていた。
 退職した父は、畑や田んぼ、山の仕事を楽しんでやっていた。僕も小さい頃から手伝っていたが、父は何でもできた。小屋を建てたり、池を作ったりしたのを覚えている。農機具や大工道具、チェーンソーや電動のこぎり、溶接機、グラインダーなど家にはあらゆるものがそろっていた。家のリフォームも大工さんに頼んではいたが、父もかなりの部分を手伝っていた。石垣の積み方も父に教えてもらった。そういうことは本当に何でもできた父だった。
 父はスキーも好きだった。僕が子どもの頃に一緒に始め、毎シーズン家族でスキーに出掛けていた。高校に入り父とスキーをすることはなくなったが、その後も父は一人でスキーを楽しんでいた。60歳を超えてから友人と北海道にまでスキー旅行に行ったこともある。
 ある日の電話で父から話があった。「スキー場でリフトの隣に座った女性に話し掛けたら、お前の高校の同級生やったぞ」。とても恥ずかしかった。晩年はC型肝炎、肝硬変と病に伏せってしまっていたが、70歳くらいまでスキーをしていたのではないだろうか。今の自分の体力を考えると、とてもできそうにない。
 そんな僕にも反抗期はあった。父がすごく俗物的に見えて好きになれなかった時期があった。こんな田舎絶対に出て行ってやると思って勉強を頑張った。「ふるさとは遠きにありて思ふもの」などと格好つけて、実家にもあまり帰らなかった。
 自分自身も父親になり、一番下の子がこの春に大学に入り、妻との二人暮らしになった。急に歳を取ったような気になった。父のように退職して悠々自適の生活など望むべくもないが、父の気持ちは分かる気がする。父は言わなかったが、僕に家や田畑を継いで欲しかったのだろう。子どもの頃から畑仕事や山仕事を手伝わされて教え込まれた。
 僕が実家を継ぐことはなくなったが、母が倒れて長年放置されていた畑を昨年から弟が始めた。僕も何だかうれしい気持ちでいる。先日ふと鏡の中の自分を見て、目じりの皺(しわ)が父に似ていると思った。嫌ではなかった。

鳥取県 鳥取県中部医師会報 NO.105より

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