メディアの映像は容赦ない。正月早々のテレビ画面には、一面焦土と化した街並みが一日中映し出されていた。2024年1月1日の能登半島地震で、震度6強の揺れを観測した石川県輪島市の「朝市通り」では大規模な火災が起き、店舗や住宅など200棟以上が焼け、およそ4万8000平方メートルが焼き尽くされた。輪島市ではその他でも広い範囲で建物が倒壊するなどし、80人以上の方が犠牲となった。心からお悔やみ申し上げる。
私が輪島市を訪れたのは1976年の夏であった。当時は免許を取って間もなく、ご多分に漏れず運転したい盛りで、高校の同級生と二人で当てもない自動車旅行に出ることにした。ルールは一つ、持ち金の残金が半分になれば引き返す。ハネムーンさながらに他の同級生達からの見送りを受け、2号線を東進し倉敷・岡山を経て山陰へ向かい、鳥取砂丘からはひたすら海岸線を走った。
経費節約のため、エアコンは入れない、車中泊が基本で、風呂に入りたい時だけ安ホテルに泊まる、食事は地元のスーパーで総菜を購入する。このような破天荒な旅なので、皆さんのご想像どおり道中さまざまなハプニングがあったが、今回は割愛させて頂く。
旅のルールによって、輪島市が最終目的地となった。車から起き出し、公園の水道で形だけの身だしなみを整え、うわさの朝市に出掛けることにした。一通りブラブラと歩き、最も安そうな魚の干物を見つけた。そのままでは食べられそうになかったが、懐事情から選択肢はほぼ無いに等しい。露店の老婆に掛け合って更に安くしてもらい、小銭をかき集めて支払った。
汚い身なりの若者を不憫(ふびん)に思ったのか、老婆はいったん私の手に渡した干物をやにわに取り上げ、人懐っこい笑顔でちょっと座ってとばかりに露店の傍らにあるビールケースを指さした。小さなちゃぶ台に売り物のおにぎりとみそ汁を置き、どこから来たのかとお決まりの質問を投げ掛けてきた。「広島から」と答えると、自分は輪島から出たことがないので分からないが随分遠くから来てくれた、と労ってくれた。
そして、食事に手を付けるよう促しながら、先ほど私の手から取り上げた干物を炙り始めた。既に空腹に耐えかねていた私達は、早速おにぎりと魚の出汁(だし)のよく効いたみそ汁を頂いた。染みる。間もなく程良く炙られた干物が2枚に増えて、更にサザエまで添えられて目の前に現れた。驚いて老婆の顔を見ると「な~ん、よむねぇもん」とニコニコしている。ありがたく完食したが、このまま立ち去るわけにはいかない。急ぐ旅ではないので、朝ごはんのお礼とばかりに客の呼び込みを手伝った。「こうてくだぁ~」と、老婆に習った輪島弁で道行く観光客に声を掛けた。
お手伝いの甲斐(かい)もあってか、周りの露店より早く店仕舞いすることになり、店の後片付けを済ませてから老婆に暇(いとま)を告げた。期せずして最終到達地となった輪島は、破天荒な旅の中でも殊更思い出深い街となった。
「朝市通り」は、新鮮な魚介類や地元の特産品が並び、観光客や地元の人々でにぎわい、地元の人達の温かい雰囲気や親しみやすさを感じながら、地元の食材や文化に触れることができる場であった。そのにぎわいが一日でも早く戻ってくることを願ってやまない。
(一部省略)
広島県 安芸地区医師会月報 NO.602より