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令和5年(2023年)4月5日(水) / 南から北から / 日医ニュース

犬も走れば

 祖父の趣味は狩猟でした。楽しんでいたのは鳥猟で、熊や鹿などの大物を捕る獣猟ではありません。狩猟期間は、鳥獣保護のため冬の3カ月に限定されていますが、実家に年末帰省をした時は既に解禁になっていました。小学生の時の記憶では、猟の前日の祖父は銃の手入れに余念がなく、うれしそうに万全の準備をしていました。
 猟には猟犬を連れていきます。役目は鳥を見つけて知らせる、鳥を追い出させる、そして獲物を回収することです。飼っていたのはポインターという種類で、大型犬でした。外観は白黒のまだら模様で、無駄な脂肪が無く鍛えられたアスリートのような体型です。鋭いまなざしで、精悍(せいかん)な顔付きでした。「しっかり働くよ」といった、自信たっぷりの雰囲気です。跳ねるように走る姿が美しかったです。散歩に連れていくと、大きな体で「俺に付いてこい」とばかりに力強くリードを引っ張りますから、小さな子どもや祖母では対応ができませんでした。
 猟の当日になると、猟犬は朝から興奮気味です。楽しそうにウォーミングアップをしているようで、「さあ、行くぞ!」という気合いが見られました。夕方になり、見事にキジを手にして帰ってきた祖父の隣では、「どうだ、やっただろう」と言った顔付きです。納得したように何度もうなずく動作をしていました。
 猟の収穫があった時は、ごちそうになります。祖母は渡された獲物を手際良く処理して、夜の食卓に並べました。出されたジビエは、恐らくとてもおいしいのでしょうが、子どもには味の良さがよく分かりません。また、つい先程まで羽の付いた姿だったことを思い浮かべると、複雑な気持ちになったものでした。ある時、肉にかぶりつくと口の中で「ガキッ!」と音がして、それが脳まで響きわたりました。肉の中に弾が残っていたのです。この時に、歯の一部が欠けてしまいました。味よりも、こちらの記憶の方が鮮明です。
 私が中学生の時に、祖父が脳出血で亡くなりました。入院の直前まで猟に出掛けていたので、猟銃と猟犬が残されました。猟銃は管理するのに厳しい規則があり、ライセンスはすぐに返納されました。一方の猟犬は仕事が無くなり、散歩もできない日々が続きました。葬儀が終わり1週間もすると、猟犬は体付きといい顔色といい、どうも精彩を欠いているように見えました。「ああ、退屈だ」と言いたげでしたので、叔父と私で山へ連れていくことにしました。
 冬の寒い日だったのですが、猟犬は「待っていました!」とばかりに喜びが溢れ、久しぶりの山で我を忘れたかのように走り回りました。しかし5分もすると、様子がおかしくなってきました。疲れてしまったようです。徐々に肩で息をするようになり、「ハア、ハア」と口を開け、足取りが重くなりました。原因は、明らかに運動不足から生じた持久力の低下でした。ついには動かなくなって、地べたに横たわってしまったのです。かつての勇猛な風格とは程遠く、眉も下がって「参ったなー」と言うような表情になりました。犬も走れば「労」に当たるのでしょう。
 しばらく休憩を取ったのですが、回復する兆しは無く途方に暮れてしまいました。次第に辺りは暗くなり、山は冷え雪もちらついてきました。仕方なく叔父が、犬の両前脚を自分の背中から肩に担ぎ、犬を背負った状態で帰路に就くことになりました。猟犬はうれしそうに、口の端で笑ったように見えましたが、「俺もこんな姿になっちゃったな」とも言っているようでしたから、どうも苦笑いのようです。犬はあごが上がってしまって、株が下がってしまったのでした。
 家に着くと、水を飲みながら上目使いで私を見つめ「迷惑を掛けたね」と謝っているようでした。しかしその後は、背筋の伸びたお座りの姿勢を取り、「次の仕事は頑張るよ」とアピールしていました。務めに対する意気込みは人一倍、いや犬一倍でした。
 還暦を過ぎた今でも、街で大型犬の散歩に遭遇すると、自力で山を降りられなくなった猟犬の姿を思い出します。他山の石として、私に運動を習慣化することの大切さを教えてくれているのです。

愛知県 名古屋医報 第1496号より

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