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令和3年(2021年)9月5日(日) / 南から北から / 日医ニュース

ランニングは苦しみか?快感か? あるいは哲学か?

 昨年からランニングを始めた。
 始めた時に57歳、今までその手のスポーツは全くしていなかったが、「死ぬまでにフルマラソンを完走しよう」と唐突に目標を立てた。ランニングなんて自分のペースで走るので、年を取っても始められる安全なスポーツだと思っていた。だから、そんな目標を立てたのだが、それが甘かった。文字どおりあちこち痛い思いをすることになった。
 まず転んだ。仕事が終わってから走っていたので、夕暮れで足元が暗くなっていたせいもある。体は一回転し、足と腕をすりむき、血を流しながら、半べそをかいて、家までたどり着いた。妻からは、「若くないのに無理をするから」と、大層怒られた。
 次に、肉離れになった。右の太ももの裏、いわゆるハムストリングである。走り始めて1キロくらいだろうか、信号待ちから走り始めたところ、突然に痛みが来て、もう足を前に出せなくなった。苦悶の表情でどうにか帰宅したが、妻に怒られたくないので、「ちょっとだけ痛い」などと強がった。しかし、様子を見透かされ、「また無理をするから」と怒られた。痛みの回復には3週間ほど掛かり、その間は走りたくても走れなかった。
 それでも痛みが引けたら、また徐々に走り出した。何とか以前のペースで走れるようになったところで、今度は右の足の底が痛くなった。走り始めて2キロくらいのところだろうか、じわじわ痛くなってきた。大したことがないと思って走り続けると、だんだん痛みが強くなってくる。ちょっとヤバいかも、と思い始めたのは更に1キロ走ってからだ。ストレッチなどしたが痛みは治まらない。足をかばいながら自宅を目指してゆっくり歩き始めたが、痛みはじわじわと増してきた。家に着く頃には、足を地につけるのもつらかった。妻には「ちょっと痛みが出たから無理せずに帰ってきたよ」と強がった。妻は呆れたように、「すごく痛いんでしょ? 馬鹿じゃないの」と言った。そうです、すごく痛いんです(涙)。
 足底の痛みは、どうやら足底筋膜炎だった。いろいろ治療法のようなものもネットには書いてあったが、最終的には安静しかないと分かった。完全に落ち着くまで3~4カ月掛かり、更にはその後、痛風発作まで加わり、そうして私のランニング元年は終了した。
 これだけ痛い思いをしたが、私は懲りもせず、今年も走っている。走るペースを落とし、走るのも週末のみとして、妻の言うように無理はせずに続けている。そのかいあって、今年は大きなけがもないが、どうかすると「もっと走りたい」とウズウズしてくる。なぜだろう。走るのは苦しいし、けがをすれば痛いのだ。私の中に、実は苦しみが快楽となる性癖があったのか? この年齢にして新しい発見である。
 性癖だけではないかも知れない。走るのは苦しい。だが、走っているうちに何となく頭がボーッとしてきて、ただ足だけが前に進み、お花畑にいるような気になる。仕事のストレスも妻に怒られたことも、どこかに行ってしまう。走り終わった後などは、何とも言えない達成感に包まれる。頭が空っぽになってリセットされた気になる。
 更に気分だけではなく、本当に頭が空っぽになって、メモリーが消去される時もある。ハッと気付くと、どういう道をたどってここまで走ってきたのか記憶が定かでない。更には、いつも走り始める時には、どこまで走って戻ってくる、と決めるのだが、それすらもあやふやになる。私はどこへ走っていたのか? どこから来たのか? まだ走るべきなのか? もう戻るべきなのか? だが、どこへ戻るのか? どこから来たのかも分からないのに。そもそも人類はどこへ向かっているのだ? この道は正しいのだろうか?
 そういう永遠の哲学的命題の解を求めて、私は走っているのかも知れない(そんな馬鹿な)。

(一部省略)

北海道 北海道医報 第1229号より

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