北海道の東の果て、美幌(びほろ)峠の近くに住むMさんが、令和2年12月、87歳の生涯を閉じた。日本列島の西の果て、九州佐賀に住む私はそれを知って来し方を振り返り、言い知れぬ寂しさに包まれた。
二人の出会いを語るためには、日本国の重い歴史をさかのぼらなければならない。
Mさん一家は領土拡張の国策に沿って、日本の植民地のような満州国に住んでいたが、日本の敗戦を機に支配者から一転、追われる身となった。不幸にも父親はその年に戦死し、病弱な母親は4人の子どもを連れて、迫害の中を逃げるようにしてやっと祖国に引き揚げた。
上陸したのは長崎県佐世保港外、針尾島(はりおじま)の浦頭(うらがしら)海岸と言った。母親の衰弱はひどく、しばらくそこで静養するよう勧められたが、最後の力を振り絞って北海道の実家にたどり着いた。そして、子どもを親に託して間もなく息を引き取った。
66歳の祖父は4人の親無し子を育てた。それから50年の歳月が流れた。11歳で引き揚げてきたMさんも還暦を過ぎ、歩んで来た道をしみじみと思う。
その頃(平成10年)、50年前に引き揚げの第一歩を印した「浦頭海岸」に集う全国大会が催されることとなった。Mさんは折あしく体調が十分でなかったが、その会にはどうしても出席したかった。はるばる九州まで下った。
当日の参加者は佐世保港で船に乗り込み、それぞれの思い出を抱きながら、海路、針尾島に近づき浦頭海岸に上陸した。
50年ぶりの浦頭。ここはかつて戦地や植民地から引き揚げる140万人の邦人が心身ともに傷つき、疲れ果ててたどり着き、祖国の土を踏んだ所だ。今は引き揚げ記念公園として整備され、中央に高さ18メートルの平和の女神像が立っている。豊かな胸、悲しみも苦しみも包み込むような慈愛に満ちた顔、左手で鳩を高く掲げている。その遥か彼方の大空には、白い雲が悠々と流れていた。目を閉じたMさんは、そこに11歳の自分の姿を見る。来てよかった、と思った。
同じ針尾島の一角には華やかなハウステンボスの夢の館が立ち並んでいた。記念会はそこで行われた。Mさんはそれらを終えてから近くの嬉野温泉に投宿した。
その夜、長旅や行事の疲れが出たのか急にめまいが起こった。旅先での病気ほど不安なものはない。Mさんは宿の紹介で私の医院を受診された。点滴注射を打ちながらMさんと言葉を交わした。今日の引き揚げ記念の行事から、話はだんだんさかのぼっていった。戦争に翻弄されて両親を亡くし、祖父母に育てられたMさん。父親が戦死したため祖父に育ててもらった私。二人は同じ境遇だった。
数日後、北海道から厚い便りが届いた。無事に帰り着いたこと、旅先での病気の身に受けた温情がどんなにうれしかったことか。祖父に育てられた者同士のふれあいなど、Mさんの熱い思いが直に感じられた。後れて、段ボール箱が届いた。中には北海道の土の付いたじゃがいもとカボチャが詰められていた。その翌年も同じように届けられびっくりし、ありがたかった。何と、それから毎年欠かさず送ってもらっている。指折り数えたら17回となった。
この間、文通を続けたが会ったことはない。便りによればMさんは透析の身となった。
その3年後、平成30年7月。息子の運転で北海道東部をドライブする計画を立て、Mさん宅の訪問も組み込んだ。Mさんとは平成10年に私の医院での診療で出会って以来、その後20年間一度も会っていない。顔や形の記憶はなかった。
Mさん御夫婦は待ってくれていた。やはり実直な方だった。私達は、生きてまた会えたことを喜び合った。私は20年間も続いたじゃがいものお礼を改めて申し上げた。Mさんは波乱に満ち、苦労の多かった人生に加え透析の身となったけれど、自分は幸せだったと語り、私が送った随筆集を透析の看護師さんに読んでもらうのも楽しみと教えてくれた。お互い、八十路を越した身。淡々とした話しぶりに静かな喜びが染みた。長居は遠慮して辞し、近くの女満別(めまんべつ)空港へ向かった。
それから3年後、昨年の晩秋にもじゃがいもは届いた。23回目であった。これからもずっと続くもののように思われた。何事にも終わりがあることは承知しながらも......。
今年の年賀状は来なかった。
1月中旬、奥様からMさんの訃報が届けられた。戦争で父親を亡くし、祖父に育てられた遠く離れた二人がたまたまの病気をきっかけに知り合い、心を通わせ、20年以上の淡い交わりを続けた。誰も気付かない遠い戦争の落とし物、ただそれだけの事かも知れないがMさんの死は、町の灯りが消えるような寂しさを置いていった。
北海道の大地に稔りの秋が再びめぐってきても、もうじゃがいもは届かない。
(一部省略)
佐賀県 医界佐賀 第1169号より