先日、中学校時代の恩師が、私の病院で診療を受けられたついでに私を訪ねてくださり、こういうものが出てきた、と言って、1枚の年賀状をくださった。それは、昭和46年の元旦に、当時中学1年、13歳の私が、その先生に宛てて出した年賀状だった。
先生に年賀状を出したという記憶自体あいまいだったのだが、40年以上の月日が経っている、もうセピア色になった年賀はがきを頂いて、よくとっておいて頂いたという感謝の念とともに、最近たまに聞く、タイムカプセルを開けた時というのはこういう感覚なのだろうという何とも言われぬ懐かしさを覚えた。
はがきの表側を見ると、昭和46年はいのしし年で年賀状は7円だったようだ。今の52円の7分の1! 年賀状に書いてある当時の私の字は、今の私が普段書いている字とはかなり違って、いかにも子どもっぽい字だった。いつの頃にどう自分の字が変化したのか分からないが、昔はワープロなどなく、高校大学とたくさん字を書いたので、だんだんに大人の字に変わったのであろうか。
また、年賀の簡単なあいさつに添えて、自分の似顔絵とおぼしき漫画が描いてあった。いがぐり頭(当時通っていた中学の男子は五分刈りだったので高校に行くと長髪にできるのが楽しみだった)で学生服を着て飛び上がっている子どもの絵で、これも何となく、ああ、そういえばこういう絵を描いた覚えがある、と思い出された。
また、その字は万年筆で書いてあった。この万年筆がどういうものであるのかについてはきちんと覚えがあって、これは中1何とか、という、今でもあるのかも知れないが、月刊の雑誌を1年分予約購読するともらえた先端が鉄の万年筆である。当時はボールペンというものを使った覚えがあまりなく、高校くらいまでずっとこれを使っていたように思う。いつしか先端が曲がってしまってそれで終わりになったと記憶している。当時は、万年筆が流行(はや)りで、進学祝いと言えば万年筆、というのが定番だったように記憶している。
思いがけないはがきの出現で、まだ人生これから、という希望に満ちていた頃の自分がよみがえった。両親も健在で、その庇護(ひご)の下、とにかく毎日を未来に向かって一生懸命に生きていた頃の本当に懐かしい思い出だ。このはがきを、その頃はまだ生まれていなかった看護師さんや事務の方に見せて、ひとしきり盛り上がった。
先生、最高のプレゼントでした。ありがとうございました。
(一部省略)
富山県 富山市医師会報 No.540より