一昔前、私の子どもの頃まで、トイレは便所、ご不浄と言い、大変イメージが悪かった。世界各地のお城や宮殿を見ても、建築物は立派で感心させられるが、当時のトイレはどうだったのかと考えてしまう。古代バビロニアやローマ帝国などの遺跡にある水洗トイレは例外として、一般には臭くて暗くて、一刻も早くその場を離れたいという気持ちになるような場所ではなかったかと想像する。
そのトイレがこのところ一変している。特に日本のトイレは快適である。西洋人が日本に来て一番びっくりするのはトイレだという。欧米では一流ホテルでも豪華客船でも、シャワーが完備されていないトイレが多い。日本では和式トイレが減り、大衆食堂でも洋式のシャワートイレが常識化している。
そのためか、近年トイレの状況がおかしいのである。最近、男性の個室トイレは満室が多い。あまり男性が居ないと思われる平日の午前中の百貨店のトイレでも、階を代えて複数カ所に行ってみてもどこも満室のことがある。その割に、店内には男性客は目立たず、立って用を足している人に遭遇することはあまりない。最近では日本でも座って用を足す男性が増えているそうで、そのためかとも思ってみた。
それにしても、空くのを待っていても5~10分と個室から誰も出てこない。かすかに物音はするが、本当に中に人がいるのかと疑いたくなることもある。芳香剤の香りが漂っていて、静かで誰にも邪魔をされず、人目も気にせず何時間でも座っていられるので、洋式の個室トイレはオアシスだそうである。中で長時間メールやインターネットを楽しんだり、人によっては食事をする人もいるそうで、"便所飯"という言葉もあるそうである。
ある製紙会社の調査では、「トイレで何をしていますか」の質問に対し、排泄以外の回答の第1位は「瞑想(めいそう)にふける」、第2位は「新聞・雑誌を読む」、第3位は「メール・インターネットをする」とのことだった。排泄以外の用途で個室トイレを利用している方も多いようである。
一方で深刻なのが、最近の社会人の状況である。私も産業医をしているが、仕事でつまずいたり、上司から叱責されたりすると、職場に行けなくなる社会人が多くなったと思う。少子化の影響か、大切に育てられたためか、最近は昔に比べて不幸慣れしていない社会人が増えた印象がある。壁に当たると、困難を乗り越える力を持っておらず、逃避に走ってしまう。以前は公園のベンチで1日を過ごしていたのが、近年ではトイレに流れ込んでいる人も多い。
トイレが快適過ぎるのも、社会にとって良いこととばかりも言っていられないと、トイレが空くのを待ちながら日本の将来を心配してしまった。将棋の雪隠(せっちん)詰めではないが、社会の隅に追い詰められた人の、最後の隠れ場所なのであろうか。
(一部省略)
埼玉県 浦和医師会報 第667号より