このタイトルを見て、いい走りをしたね、と思った方はかなりのランニング通とお見受けする。ネガティブスプリットというのは、マラソンのペース配分を意味する。前半は早いペースで貯金をつくり、後半ペースダウンするのがポジティブスプリット、逆に前半はペースを抑えて後半にかけてペースを上げていくのがネガティブスプリットである。
マラソンは42キロメートルという長い距離を走るので、途中のペース配分が難しく、多くのランナーは後半の失速を見越して、ポジティブスプリットの計画を立ててしまい、そうすると30キロメートルからが大変しんどい。しかし、ネガティブスプリットだと、途中からペースが落ちてきた選手を次々に抜き去り、気持ちいいと同時に、自己ベスト更新が可能と言われている。
ネガティブスプリットが決まったのは今年の2月に行われた愛媛マラソンでのこと。今回で5回目の参加となるのだが、愛媛マラソンは3時間30分より速いタイムでゴールすると、翌年よりアスリート選手としてかなりの確率で出場可能となる。この地元開催のフルマラソンという最大のお祭りには、何としてでも参加したいと思うのはどのランナーも同じである。今回は抽選で出場することができたが、来年も当選できる保証などどこにもない。そう考えると、本番の半年も前から追い込まれた気分に陥ってしまい、サブ3・5という高い目標を立て、今までにないハードな練習計画を練ることになる。
その甲斐(かい)もあってか、大会当日は冷たい雨や強風など悪いコンディションであったが慌てず、また折り返しまでは追い風でついペースを上げたくなるのを抑えることができた。最終的なタイムは3時間28分56秒と無事に目標を達成し、刻んだラップが、ペースメーカーかと思うほど正確であったことには自分ながら驚いた。
また、毎回マラソン後はしっかり両脚がつるのが自分流の儀式で、今回も身構えていたのだが、不思議といつまでも訪れなかった。これらのことは振り返るに、綿密な計画と、ネガティブスプリットを実行した成果なのだと思う。
しかし初めから、このネガティブスプリットを信用したわけではない。今までの経験では、後半にペースを上げるという展開はとても考えられない。例えば前回大会は、前半は目標を上回る快調なペースで走るものの、折り返し付近から足がつりそうになり、結局はゴール5キロメートル前地点で両脚がつり、何とかゴールはしたものの達成感はなかった。完全な失敗レースで、前半のオーバーペース(これが典型的なポジティブスプリット)が原因だろう。そんな経験も積みながら、いろいろ調べている中で出会ったのがこのネガティブスプリット理論であった。
どうやら世界レベルでも、記録が出るのはこのペースが多く、シドニー五輪金メダリストの高橋尚子選手の秘訣(ひけつ)は「温存、温存!」、ロンドン五輪の日本代表の藤原新選手は「30キロメートルまでは寝ています」と2人とも表現は違うものの、ネガティブスプリットを意識している。
なぜ、ネガティブスプリットだとタイムが良くなるのか。オーバーペースは早いうちに体内の糖質消費が進むことで疲労がたまり、後半の過度な失速につながる。この糖質の体内プールは400グラム程度と少ないため(それに対して脂質プールは数キログラム)枯渇しやすく、そうなる前に脳は体にブレーキをかける。つまりこれが30キロメートルの壁である。しかし前半抑えたペースは、脂質中心に消費することで疲労を避け、後半の失速を極力防ぐことで失敗のレースを避けることができる。
一年前に失敗している自分には、この考えは納得のいくところがあり、また期待が持てるものであった。かくしてこの理論を信じて計画を立てるのだが、それを実現する練習というのは、やはりひたすら走るというとても地味なもので、結局本番前の1カ月間の走行距離は300キロメートルを超えていた。思いつくあらゆる本番のコンディションを経験しておくため、雨の日も、雪の降る日にも敢(あ)えて練習した。
マラソンというスポーツは、自分がどこまでできるのかという、自分の体との対話の繰り返しで、痛みがある時やしんどい時など、体の発するメッセージに従い無理をしない時もあれば、気のせいと体をだましながらで上手(うま)くいく時もある。ネガティブスプリットはその対話を繰り返すことで、更に精度が増していくのだと思う。速さを追求するのも距離を求めるのも、どちらも突き詰めるのは大変と分かっているのだけれども、そこをなぜか楽しいと感じる自分はやはり、走ることに魅せられているようだ。
(一部省略)
愛媛県 松山市医師会報 第305号より