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令和2年(2020年)12月20日(日) / 南から北から / 日医ニュース

シネマの世界

 小学生の頃、年に数回、家族と共に過ごす、今なら本当に細やかだが記憶にはっきりと刻まれている、ぜいたくな時間があった。それは、いつやってくるという決まったものではなかった。
 休日のある日、突然父親が「今日は、映画を見て外で食事をするぞ」の一声で始まる、降って湧いたようなプレゼントであった。この一声がいつ出るかは、全く予想がつかない。前日機嫌が良かったからといって出るものではないし、逆に機嫌が悪かったからといって出ないものでもなかった。しかも、1週間に連続ということもあれば、半年以上全く梨の礫(つぶて)ということもあった。
 要するに父親の当日の気分次第なのであった。と書いて今思い当たることがある。気分次第と書いたが、多分にその時代の診療状況にこのプレゼントは左右されていたのではないかと思い至るのだ。すなわち、休日のその時出掛けようと以前から予定していても、当日急患が来院したり、往診を頼まれたりすると、全く予定どおりにはいかなくなってしまうのだ。
 だからだと思う。いついつ出掛けるぞという予定の話はほとんどしたことはなく、大抵は突然の召集であった。ま、このことは良いとして、突然の一声が始まると、約1時間以内に出発しなくてはならないのが、一つのハードルであった。そうでないと非常に発声者の気分が悪くなり、場合によっては、出発中止という最悪の事態に陥る可能性もあった。
 これも、早く出発しないと急患の来院や、往診の依頼があるかも知れないという気持ちがあったのだろうと、今なら容易に理解できるのだが、何せそんな気持ちを理解できない当時は、うれしさで、心ワクワクなのと同時に、時計と父親の顔色を見比べながらの緊迫した時間であった。
 お出掛けの格好は、皆正装であった。特に決まりがあったわけではなかった。父親がネクタイをきちっと締め、シャッポを被り、母親も右へ倣えの格好をすると、自然とそうせざるを得ないという気持ちとなり、小学生なりに少ない手持ちの服をあれやこれやと引っ張り出して、結局はわけが分からなくなって小学校の制服を着るという、毎回決まったパターンを繰り返すのであった。
 そんなわけで、1時間以内で出発するということは、実に高いハードルであったのだ。今思うと実に滑稽(こっけい)な光景だと思う。たかが映画を見て食事だけである。今なら普段着にサンダルつっかけて行ったって問題はないだろうが。それでもあの時、バタバタと時間を過ごし、正装をして出掛けるということが、それから始まる魅惑の時間のプロローグとして、また前菜として極上のものであったのは間違いないと思う。
 映画館は、有楽町のロードショー館と決まっていた。そして何と言っても指定席であった。今でも、そのソファーに座った時の包みこまれるような優越感は忘れられない。徐々に室内が暗くなっていく。映画が上映されるまでの数分間、周りのザワメキが途絶えて、シーンとなり皆が期待しているものがこれから登場するという緊張感。これが本当に胸が高鳴ると思われるドキドキとした感じ......。
 実はここまでが、自分にとって、刻み込まれた鮮明な記憶なのである。
 その後の実際の映画に関しては、おぼろな記憶しかない。「ドクトル・ジバゴ」「アラビアのロレンス」この辺りが、断片的に映像と音楽が浮かぶ(それも後年、何回か見たからだろうが)。それ以外は何を見たかもすっかり忘れてしまっている。それでも幸せな、充実した時間、ぜいたくと言って良い時間を過ごせたという、確かな記憶は鮮明に残っている。
 あの頃の生活は今と比較して、はるかに貧しく、そして質素であった。それ故に、日常と異なる、小さな、そして細やかな幸せも、極上の品として、今でも心に強く残っているのだろう。
 映画が娯楽の花形であり、スターは文字どおり天上の星であった時代の話である。物は乏しかった。しかしもしかすると、心は今よりも豊かだったかも知れない時代の話である。

(一部省略)

東京都 三鷹医人往来 309号より

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