子どもの頃に読んだ民話にスズメとツバメの姉妹の話があった。ある日、姉妹の元にお母さんが危篤との知らせが入る。妹のスズメはいつもの茶色の地味な服のまま飛んでいったが、姉のツバメはおしゃれに時間が掛かり、お母さんの最期に間に合わなかった。その後、神様は親孝行なスズメには米が実ったら一番先に食べて良いと言い、ツバメには土や虫を食べるよう決め、ツバメは「ツチクッテムシクッテシブイー」と鳴くようになったというような話だった。
多くの日本人は、身近な人の「死に目に会う」ということを大切なことだと考えている。本人の意思が確認できなくなった高齢者の家族に終末期の意向を確認すると、「家族が到着するまでは延命を」と希望されることもある。死に目に会えなかったことを悔いる気持ちを抱き続けている人もいる。
「死に目に会えなかった」ということは悪いこと・不幸なことなのだろうか。死に目に会うという言葉の主語は亡くなる本人ではない。視点を変えて考えてみれば、「家族」が死に目に会うことよりも、「本人」が苦痛なく穏やかに過ごせることの方が重要ではないだろうか。
「令和4年度人生の最終段階における医療・ケアに関する意識調査」(厚生労働省)によると、人生会議(ACP)の認知度は、一般国民では「よく知っている」と回答した者の割合は5・9%、「聞いたことはあるがよく知らない」が21・5%、「知らない」が72・1%という結果であった。まだまだ認知度は低い。
(紗)