令和6年(2024年)10月20日(日) / 日医ニュース
「令和6年能登半島地震~被災地に寄り添った医療支援とは?」をテーマに開催
「地域に根ざした医師会活動プロジェクト」第3回シンポジウム
- 000
- 印刷
「地域に根ざした医師会活動プロジェクト」第3回シンポジウムが9月21日、「令和6年能登半島地震~被災地に寄り添った医療支援とは?」をテーマに、日本医師会館大講堂とWEB会議のハイブリッド形式により開催され、今回のJMAT活動の経験を踏まえ、支援する側とされる側の両方の観点からさまざまな報告がなされた。
当日は、開会前に、日本医師会「次世代の災害医療」シンポジウムのショートフィルムが上映され、渡辺弘司常任理事の司会により開会。続いて、オープニングムービーとして能登半島地震の被災地における医師会活動のVTRが上映された。
冒頭、あいさつした松本吉郎会長は、「災害が起こると、日本医師会は都道府県や郡市区等医師会の協力の下、日本医師会災害医療チーム『JMAT』を編成し、被災地での医療支援を行っているが、今年1月1日の令和6年能登半島地震発生の際にも全国の医師会が被災地支援を行った」と説明。本シンポジウムがこのような災害時の地域に根ざした医師会活動に対する理解を深めるための一助となることに期待を寄せた。
第1部:「被災地に寄り添う」ということについて
第1部では、座長の池端幸彦福井県医師会長とプロフィギュアスケーターの荒川静香氏が登壇し、「被災地に寄り添う」をテーマに語り合った(写真上)。
荒川氏は、東日本大震災の際、幼少期から高校卒業までを過ごした仙台市に駆け付けたことに触れ、それが反対に迷惑になってしまうのではないかとの葛藤の中で、金銭的・物理的サポートだけでなく、元気を届けることがエンターテイメント業界に身を置く自身の使命であると感じたことを回顧。心の復興には時間が掛かるとし、町が復興しても風化させずに、被災者に寄り添ってサポートし続けることが重要だとした。
その他、池端福井県医師会長は、「全国から派遣されるJMATの医師は救急災害のプロではないが、被災者に寄り添うことができる」とその意義を強調。荒川氏は2児を育てる中で、かかりつけ医にまず相談できることが子育てに安心感をもたらしているとして、かかりつけ医をもつことの重要性を指摘した。
第2部:被災地におけるJMAT活動、統括JMATについて
第2部では、引き続き池端福井県医師会長を座長として、2本の動画(1)令和6年能登半島地震 統括JMATによる支援先の状況分析、チームの配置調整、(2)実際のJMAT活動:調整支部における統括―を上映。
(1)では、秋冨愼司日医総研主任研究員/石川県医師会参与が、「JMATの最終目標は被災地に地域医療を取り戻すことにある」とした他、能登半島地震の際には「JMAT施設評価統合システム(FA―SYS)」のシステムを用いることで緊急度や現状を把握し、数日ごとに入れ替わる支援者間の申し送りが可能となり、長期に寄り添う支援体制を実現することができたことを概説した。
第3部:被災地に寄り添った医療支援について
第3部では、まず、座長によるイントロダクションとして、田名毅沖縄県医師会長が、JMATの役割について、被災地の医療・健康管理・公衆衛生に関する支援のみならず、混乱している医師会や行政の活動を支援することもその役割となることを概説。「多機関多職種からなるチームでの活動を通じて貴重な情報交換や経験ができる」とした上で、災害医療においては、災害派遣医療チーム(DMAT)や日本赤十字社など他のチームとどれだけ協力して進めていけるかが要になるとし、コーディネーター業務の重要性を強調した。
続いて、5名のパネリストが講演を行った。
秋冨日医総研主任研究員は、令和6年能登半島地震における統括JMATとしての経験を基に、危機管理は日本医師会や国レベルの大きな組織体制で進められるべきものとする一方、被災地のニーズを踏まえることが大切であると指摘。
また、今回の震災を振り返り、高齢者施設等の介護士や看護師の離職により患者が戻れなくなる状況が生じてしまったとした他、JMATが被災医療機関に継続して寄り添い続けることが地域医療の安定化をもたらし、地域の復興につなげることができると訴えた。
村上美也子富山県医師会長は、発災直後より隣接する石川県にJMATを派遣し、1月は避難所の巡回、2月は籠城(ろうじょう)する形となった高齢者施設の巡回診療・褥瘡(じょくそう)処置、2月中旬から3月に掛けては開業医への診療支援などを展開したこと等を報告。「広域避難により、避難所では医療需要が減少する一方、看護師や介護士等の不足が深刻で、食事や入浴の介助、被災診療所の後片付けなども行った」とした。
また、活動の調整においては地域医師会の役割が非常に大きいものの、医師会自身が被災している場合はバックオフィスとしての支援も必要になると指摘した。
大石賢斉粟倉医院長は、一時孤立した輪島市町野町で唯一の診療所の医師として、発災後にたまたま出会った看護師らと3名のチームを組み、消防とも連携して同町の約2000名を守るために奮闘したことを報告し、「途中からは地元住民や行政、自衛隊も加わり、やれる人がやれる時にやれることをやった」と説明。甚大な被害を受け医薬品もない中で、生まれながらに備わった生きる力を信じ、「"陰の感情"を誘発しかねない血圧測定や発熱者への検査などをあえて行わず、感染症の注意喚起の貼り紙もそっと外して、感情を"陽"に寄せるため、いつも笑顔で、大丈夫だと被災者の目の奥に語り掛けていた」と振り返った。
中川麗札幌市医師会理事/JR札幌病院プライマル科(救急総合診療科)科長は、JMAT隊員として能登に派遣された際、一部の医療支援団体のビブスを着ていると入ることができない施設や避難所があるとの引き継ぎがあったことに言及。「支援に結びつかない医療支援の枠組みと現場のニーズの間にあるジレンマを突き付けられた」とし、その中で医療者として信頼を得るべく、100名以上の入浴や清拭など介護の支援から介入し、そこから褥瘡、脱水、コロナクラスターへの対応など、医療支援へとつなげていったとした。
その上で、「災害時には、そこにある資源や支援が無力化してしまうような信頼関係の破綻が起こらないように注意することも大切だと感じた。地元の方々と支援医師会と行政、その信頼関係があってこそ効果的で適切な支援を行うことができる」と述べた。
「ぼうさいこくたい2024」開催県である熊本県の西芳徳同県医師会理事は、2016年の熊本地震と2020年の熊本豪雨という大きな災害の経験から、自身もスタッフも被災する中で医療機関の復旧と災害支援を両立させるには倍のエネルギーを要したことを強調。熊本豪雨の際は、熊本県医師会JMATの一員として地元医師会と連携し、避難所の状況把握や感染症対策、診療可能な医療機関の周知、現地災害対策本部の設置などを行ったことが災害関連死を低く抑えることにもつながったことを紹介した。
その後のディスカッションでは、黒瀨巌常任理事の司会の下に、演者と座長による意見交換が行われ、茂松茂人副会長の総括により閉会となった。
なお、今回のシンポジウムの模様は後日に特設サイトや日本医師会公式YouTubeチャンネル及び「ぼうさいこくたい2024」の(https://bosai-kokutai.jp/2024/so7/)日医セッションとして公開する予定となっている。