その昔のことである。市内のデパートに買い物に行った際、別館で開かれていた講演会に出くわした。県の栄養士会のボスとおぼしき女性が大勢の主婦達を前に気炎をあげていた。いや、"獅子吼(ししく)していた"と言ったほうがピッタリか。
「皆さん、包丁を手放してはいけません!」「台所に男性を入れてはいけません!」「料理には三徳(得)あります! 一つ目は作る楽しみ、二つ目は食べる楽しみ、三つ目は愛する家族が喜んで食べてくれる姿を見れる楽しみです。その主婦の特権を自らが失ってはいけません。いいですかー、皆さんがやるんですよー」。
歯切れの良い講話は、料理が単なる家事労働ではなく生命力の再賦活(ふかつ)作用、つまりは命の充電をも併せ持つことを舌鋒(ぜっぽう)鋭く訴えていた。主婦の料理離れが始まったことを杞憂(きゆう)しての啓発活動だった。
時は流れて、令和の時代。ふとしたことで、江戸時代(1803年)に「素人包丁」というベストセラーの料理書(全3冊)があったことを知った。内容は魚料理、汁、煮物、田楽(でんがく)、精進料理など多岐にわたる。
で、この本の序文に「この書は百姓家、町家の素人に通じ、日用手料理の頼りともなるべきかと、献立の品々を分かち、俄(にわか)客の折から台所の友ともなるべきと心を用いた」とある(らしい)。つまりは素人男性もターゲットにした庶民の家庭料理本だったのだ。この本の存在を知って、がぜん私自身も料理をしてみようと思い立った。あの講話でずっと突き刺さっていた"男子厨房に入らせず"の心の刺がスッポリ抜け落ちたからである。
そのような次第で、見よう見まねで恐る恐る手料理から始めてみた。頻度は週に数回。お手本は言わずと知れたYouTube大学。自分に合ったYouTuberが先生だ。簡単料理に徹することが基本。調理器具は小型の圧力鍋と中華鍋、それにスキレット。包丁は出刃とカミソリのように研ぎあげた和包丁。これで2年もしたら、一応の料理はどうにかできるようになった。得意料理は豚汁と筑前煮、CoCo壱番屋にも負けない(?)カレーライス。梅干し、ラッキョウ、酒粕漬け、ぬか漬けなどの保存食もこなす。
そして最近になって、料理には三徳(得)以上の効用があることに気が付いた。列挙すると次のとおりとなる。
(1)買い出しに行くことで食品の種類、価格、変動などを肌身で感じられるようになった(医者業はつくづく世間知らずだったと思い知らされた)。
(2)味覚が鋭くなり、とにかくおいしく感じられる。料理全般への興味・関心が高まり、TVや新聞の料理番組や記事も見るようになった。
(3)心療内科外来は女性の患者さんが多いので料理を共通の話題として提供しやすい。不登校、引きこもりの子ども達には(せっかく在宅なので)母親から料理を習う機会にできるし、自信(自己効力感)の醸成にも役立つ。
(4)これが大事なのだが、小生が作った料理を細君が(決して細くはないのだが)、「これはおいしい」と喜んで食べてくれる姿を見る時の満足感が、更なるやる気と元気を生んでいる。"本人だけでなく周りにも喜んでもらえる"、この一点こそが他の趣味と大きく違っているところだろう。
そして今、あの講演の"女帝"の言葉はやはり真実だったと思う今日、この頃なのである。
門前の小僧 習わぬ経を読む