2年前に空知(そらち)にある病院を定年退職となり、その後、ここ道南は砂原町(現在は森町に合併)にある90床くらいの病院で働いている。砂原町のことは実はよく知らなかったのだが、海辺の町に住みたいという気持ちは昔から持っていた。それは多分、子どもの頃から憧れていた、加山雄三に対する思いがあったからであろう。
昭和30年生まれの私にとって、小学校5、6年頃にテレビで見た加山雄三は衝撃的であった。日焼けした端正な、そして少し野性的な顔立ち、スリムで引き締まった体、ギターを持って歌うその姿は、まさにアポロ像のようであり、私の心を虜(とりこ)にした。
それ以来私の人生の目標は「加山雄三になること」であった。中学でギターを買ってもらった。しかしコードを4つ弾けるようになって、壁にぶち当たった。それ以上の複雑なコードがうまく弾けないのである。それでも歌を作って、ギターを弾きながら歌えなければ、加山雄三にはなれない。
詞は書いたこともないので、1学年下の少し可愛い女の子に頼んで書いてもらった。それに4つしか弾けないコードのメロディーを付けて、何とか1曲作ろうとした。「さようなら その言葉が とても悲しい」、そんな歌詞であった。しかしコード4つでは苦しい。曲は未完のままに終わった。もっとギターが上手であれば、きっと昭和の名曲となったであろう。
ギターは諦めたが、加山雄三はそれだけではない。「若大将シリーズ」の中でも、いろんなスポーツに挑戦している。陸上、アメフト、スキーなどなど。スポーツ万能じゃないと加山雄三にはなれない。もともと私は足が速くて、中学・高校は陸上部で、子どもの頃から野球も結構上手だった。大学ではサッカー部だった。水泳も得意だ。
しかしスキーは駄目だった。高校まで埼玉だったから、一度もやったことはない。北大に入ってから誘われて何度か滑ったが、全く駄目だった。おまけに安いスキー板だったから、藻岩(もいわ)山のギャップで真っ二つに折れた。心も折れた。もう二度とスキーはしないと決めて、10年以上過ぎた。
ある夜、加山雄三が夢枕に立った(まだ生きてるけど)。「お前はスキーを諦めたのか? それじゃあオレにはなれないな......」。それから三日三晩寝ながら考えた。当時外科医になって10年目くらいで、毎日とても忙しかった。娘が3人いたのでスキーにも連れていったが、相変わらず自分は下手くそで、札幌生まれの妻が子ども達を教えていた。父親としてこれではいけないと思った。自分が一番上手になって、子ども達に教えてやらなければ駄目だと思った。当時30代後半で、やるなら今しかないと思った。職場を変えた。
○○急病センターで夜間働きながら約10年間、夏は登山、カヌー、自転車、バイク、サッカー、冬はスキーと遊びまくった。もともとひねくれ者で、他人に教わるのが好きではなく何でも自己流なので、スキーもなかなか上達しなかった。それでも手稲山のシーズン券を買って、毎年40回以上滑った。少しずつ上手になってきた。昔スキー検定2級の人と、準指導員の人と一緒に滑ったことがあり、その中間くらいだったので、自称1級である。
現在は67歳で、年に10回くらいしか滑らないが、毎年技術は向上している。まだまだ筋力は維持されていて、もともとバランス感覚は良い方なので、整備されたゲレンデよりは、あまり他人が滑らないコースの端の方の、ぐしゃぐしゃした所が得意である。だいぶ加山雄三に近付いてきた。
そして最後のポイント。加山雄三になるためには、海辺に住まなければならない。加山雄三は湘南・茅ヶ崎生まれの、生粋の湘南ボーイである。私が今住んでいるのは、砂原町の隣の鹿部町である。ここに鹿部リゾートという別荘地があり、事務長が借りてくれた大きな家に妻と二人で住んでいる。周囲は深い森で、風呂も温泉で申し分ない。朝は小鳥の囀(さえず)りで目を覚ます。職場まで車で15分だが、途中に看板があって「北海道の湘南」と書いてある。「おお、ついに自分も湘南ボーイ(オジサン)になった」と感激する。
しかしながら海まで歩いて10分ではあるが、家から海は見えない。やはり家から海が見えないと加山雄三にはなれない。そこで最近函館・湯の川温泉に中古マンションを買った。7階のべランダからは津軽海峡の海が見える。それを眺めつつ、ビールを飲みながら、そっと呟いてみる。
「幸せだなあ。ボクもやっと加山雄一くらいになれたかな。ありがとう雄三さん」
(一部省略)
北海道 北海道医報 第1248号より