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令和5年(2023年)1月5日(木) / 南から北から / 日医ニュース

正月と猫と私

 私の子ども時代の正月の大きな行事は、宮大工の棟梁をしていた父方祖父の家で親戚が集まって行われる儀式に参加することだった。年末に朝早く寒い中を起こされ、よそ行きの格好をして新幹線に乗っていくのである。普段外食など珍しかったわが家でも、この時ばかりは食堂車やビュッフェでスパゲッティやアイスクリームを思うまま食べることができた。乗り物酔いしやすい私も、憧れの新幹線で富士山を右手に見ながら名古屋までの旅路を楽しんだことを、今でも学会などで新幹線に乗ると思い出す。
 1月2日には手斧始式(ちょうなはじめしき)という、不思議な装飾が付いた手斧や槍鉋(やりがんな)を手に、古式めいた服装の祖父が材木に向かう伝統行事が執り行われた。子どもにとっても少しは興味をそそられる儀式であったが、私が祖父宅に行く本当の目的は、そこで飼われている猫達と遊ぶことだった。
 祖父は無類の猫好きで、大工の仕事場が広かったこともあり、多い時には1ダースに近い猫達がいた。祖父はお年玉として猫達に生の松阪牛を振る舞った(ちなみに私はハンバーグだった)。大人達は儀式が終わると広間でお膳を並べてお酒を飲んでいた。私は孫達の中でも最年少でいとこも少なかったので、特に遊んでくれる人がいるわけでもなく、暇を持て余していた。そんな私にとって、猫達はまるで実のいとこ達のような大切な遊び相手だった。
 猫達は気が向くと家に入ってきて(家業が宮大工なので、裏口に奇麗な猫用のドアが作り付けられていた)、ある猫は遠くでそ知らぬふりをし、ある猫は私に寄ってきて「お前誰?」と言わんばかりにニャアと鳴いた。
 とりわけバンブという名前の猫とはすぐに打ち解けて、こまの紐を猫じゃらし代わりにして遊んでいた。祖父はバンブが紐をかじると「歯が痛むぞ」と孫の心配より猫の心配をした。そう言われて私も心配になったので、バンブが紐に嚙みついたらそっと力を緩めた。大人が忙しい時には祖母から煮干しを分けてもらい、外で猫達と一緒に食べた。
 バンブはディズニーの「バンビ」のように可愛いということから名付けられたトラ猫で、毎晩9時になると居間に入ってきてニャアニャアと鳴いた。この時間は作業場の見回りをする時間なのである。猫がどうやって時間を知るのかは分からないが、祖父は懐中電灯を持って暗い作業場に行き、私とバンブも付いていって夜の探検をした。タバコの火の不始末が無いか見るのであるが、バンブはしっぽを立てて先頭を歩き、まるで自分のテリトリーの案内をしているようだった。
 4日程で私達は帰ることになった。祖父の家は子どもにはつまらなかったが、帰路の新幹線に乗れる楽しさより、猫達と過ごした時間を思うと帰りたくない気分だった。自宅に帰ってからしばらくして、祖母からはがきが届いた。そこには「猫が『あの子は帰ってしまったの?』と毎晩探してますよ」と書いてあった。
 もともと外飼いで自由な猫達なので、バンブは数年後には行方不明となってしまったと聞いた。猫は死に際の姿を飼い主にも見せないと言う。子どもの私にもその意味は痛い程分かった。バンブと過ごせたのは数年のうち、更に正月やお盆の数日間だったが、今でも大切な友人であり、いつも心のどこかに生きていると思っている。

(一部省略)

茨城県 茨城県医師会報 第817号より

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