閉じる

令和4年(2022年)12月5日(月) / 南から北から / 日医ニュース

ゆでたまご

 滝沢市の外れ、自衛隊駐屯地にほど近い、一見バラックにも見える長屋住宅のほぼ真ん中に、私の向かう患家がある。トタンで打ち付けられた引き戸の表にぶら下げられたボール紙が冷たい風にはためいていた。降り始めた雪の中近付いていくと、何やら黒いマジックで文字が書かれている。『先生ここです』
 昼下がりにしては暗い部屋に入ると、隣家とは幾層かのべニヤ板で隔されているだけのようで、壁四隅と床は少々ゆがみ、窓際からは北風が容赦なく部屋に吹き込んできた。
 「調子はどうですか?」私の問い掛けに、40歳を過ぎたばかりの独身一人暮らしの男性Sさんは、がん末期特有の痩せこけた体で答えた。「まあ、何とか。先生、外は寒かったべ。まず、ゆでたまご食べてけろ」と私に何かを差し出した。部屋の暗さに目が慣れてくると、フチが欠けて使い込んで黒ずんだご飯茶碗の底に、冷え切ってやや色の変わったゆでたまごが一個転がっていた。私はそれをほおばりながら、あれこれと診察を始めた。
 無理してコートを脱いだものの、ビニール敷の床が冷たすぎて靴下の裏がかじかんだ。「春まで病院に戻ろうか?」という私の問い掛けに「俺、ここでいいよ」とSさんは小さく笑いながら答えた。ストーブの火の始末を注意し、ゆでたまごの礼を言って帰ったが、何故(なぜ)か心の奥まで冷え込んだような気がした。
 結局これが最初で最後の往診となり、数日後、真冬には珍しく穏やかな日差しの入り込んだその部屋で、私は死亡診断書を書いた。「先生が俺のゆでたまご食べてくれてうれしかった」と言っていたと、後で看取りをした訪問看護師から聞いた。

岩手県 いわて医報 NO.855より

戻る

シェア

ページトップへ

閉じる