2021年11月最後の土曜日。午前の診療を終えて急に思い立ち、愛用のカメラと登山靴をリュックに詰め込み、瓶ケ森(かめがもり)へと車を走らせた。石鎚スカイラインのゲートは11月いっぱいで閉鎖されるため、冬の瓶ケ森へ登るにはこの日が最後のチャンスだった。スカイラインから土小屋の駐車場に着いた頃には、辺りは薄暗くなっていた。瓶ケ森の駐車場まではまだまだ掛かりそうだ。車中泊するつもりでいたが、辺りが暗くなって、車の温度計がマイナス3℃を示し雪がちらつき始めると、急に心細くなってきた。
そんな時、目の前に山荘の暖かそうな窓明かりが飛び込んできた。
「すみません、今夜泊まれる部屋はないでしょうか。予約はしてないんですが......」
「そうですか、残念ですがうちは1週間前に宿泊は終えたんですよ。でもちょっと待っていて下さいね。オーナーに話してみますから。寒いですから暖炉のそばの椅子で待っていて下さい」
バイトと思しきその女性はしばらくして戻ってきた。
「何とかできそうです。今、お部屋の準備をしますから」
部屋が暖まるまで、彼女は暖炉のそばでいろいろと話をしてくれた。
「今はバイトで香川県から来てるんです。わたしトレイルランニングをしていて、先日は石鎚まで2往復したんですよ......。冬山にはよく来られるんですか?」
「ええ、石鎚山(いしづちさん)系の霧氷(むひょう)はとても奇麗なので写真を撮りに時々登るんですよ。ただ今回は急に思い立ったもんだから何の準備もしてなくて」
「そうですか。この時期、朝晩はとても冷え込むので、装備無しの車中泊は危ないです。今夜はここでゆっくり休んで下さい。明日はお天気も良さそうなので良い写真が撮れますよ。あっ、そろそろお部屋も暖まったと思うのでご案内しますね」
案内された部屋は改装されたばかりらしく全てが新しく、冷蔵庫や電子レンジまで完備されていた。今まで山小屋には随分泊まったが、こんな快適な山小屋は初めてだ。
翌朝、真っ暗な道を瓶ケ森へと向かった。車を駐車場に停めて登り始めた頃、空が徐々に白み始め、やがて雲間から真っ赤な朝日が顔をのぞかせた。思ったとおり樹々には美しい霧氷が付き、朝靄(もや)の中に石鎚の頂が見え隠れしている。太陽が昇りきると朝靄も霧氷も消えてしまうため、チャンスを逃すまいと私は夢中でシャッターを切った。
それから10日ほど経ったある日、あの女性はわざわざ私のクリニックを訪ねてきてくれた。
「あの日は良い写真撮れましたか?」
「ええ、快適な山小屋に泊めてもらったおかげで、とても良いのが撮れましたよ」
私はあの日に撮った写真を含めた小さな写真集を「お礼に」と、彼女に手渡した。
「うわー、ありがとうございます。一生の記念にします」
「いやあ、そんな大そうなものじゃないですけど、でもそう言って頂けるとうれしいです。あなたもトレイルランニング頑張って下さいね」
私は"人を思いやる温かい心を持った彼女"との"一期一会"に感謝した。
(一部省略)
愛媛県 松山市医師会報 第345号より