私は、かなりの方向音痴である。
方向感覚に優れた人は、北の方角がどちらか、今自分がどこにいるか、目的地にはどの方向へ行けば良いかをすぐに把握できるらしい。その点、方向音痴の私は、自分がいる場所をすぐに見失い、地図を見ても迷子になり、いつも「ここはどこ?」状態になる。方向音痴の人には分かって頂けるかも知れない私の"あるある"を紹介したいと思う。
大きなショッピングセンター内でトイレヘ行くと、待ち合わせ場所へ戻れず電話を掛ける。広い駐車場では車を止めた場所が分からなくなる。地下の駅から目的地への案内表示に従って歩いても、違う出口へ出てしまう。大きい病院の中で迷う(さすがに白衣を着て、人に尋ねるわけにはいかない)。学会会場へたどり着けず、分かっているふりをして学会に参加しそうな人に付いていく。電車やバスで目的地と反対方向に乗ってしまい、慌てて降りる。初めて入った店で食事をして店を出ると、帰る方向と必ず反対方向へ歩き出す。ホテルの部屋を出てエレベーターホールへ行こうとしても、たいがい反対方向へ踏み出してしまう。
このようにいつも逆方向へ行ってしまうということは、ある意味方向感覚は一定しているのではないかと思われ、"思った方向と反対方向に行けば良いのではないか"と言われることがあるが、右か左かを迷っているのではなく、反対の反対に行っても必ず反対の方向になるのである。
動物の中にはイルカやクジラのように地磁気を感じる器官が発達した哺乳類や、渡り鳥や伝書バトのように磁場により正確な方向感覚と記憶を持っている種がいる。残念ながら人間にはこのような器官は無いので、知らない場所へ移動するには地図を利用することになる。
ひと昔前に『話を聞かない男、地図を読めない女』という本がはやり、女性は地図を読むのが苦手なので、車の助手席に乗っていても運転手のナビゲーターにならず、男女のけんかの原因になると書かれている。男性の方が女性より方向感覚が発達する理由として、男は昔から狩りに出掛け、獲物を捕まえ家に帰るのが役目だった、また男の子はおもちゃを組み立てるのが女の子より好きで空間認識能力が鍛えられる、などを挙げている。
もちろん現在はそのような能力に性差は無いとされている。イギリスの脳科学者マグアイアー博士は、道が複雑で、資格を取るのが難しいロンドンのタクシー運転手の脳を調べたところ、ベテランほど海馬の後方が大きく発達していたと報告した。本当にそうだとしたら、私も鍛え方によっては、方向音痴が治るというのだろうか?
以前から空間認知能力と記憶は、脳の海馬とその周辺の皮質にあると言われていた。ネズミの脳細胞を調べて、海馬の神経細胞に空間認知情報を記憶する「場所細胞」と空間の座標を表す「グリッド細胞」という座標軸があることを発見して、2014年にオキーフ博士とモーザー夫妻がノーベル生理学・医学賞を受賞し、脳内のGPSとも言える仕組みを解明した。しかしながらこれは基礎研究で、近年のノーベル賞のように、この研究が私のような方向音痴を治してくれる臨床応用には結びついておらず、脳内のGPS解明よりも現在ではスマホのグーグルマップやストリートビューがかなり正確に目的地へ連れて行ってくれるようになった。
先月、認知症で受診が困難になった患者さんから往診の依頼があり、2回目の往診へ行くことになった。「明日は、私が一人で往診に行ってくる」と看護師に言ったところ、「一人で行けるかどうか心配なので、一緒に付いて行きます」と言われた。クリニックから10分ほどの距離で、8号線から右に入ってすぐの家だったので「何を心配しているのか」と内心少し不機嫌になった。
翌日昼の休憩時間を利用して、しぶしぶ看護師を助手席へ乗せて往診に出掛けた。8号線を直進し、次の信号を右折して、すぐの四つ角を"左折"しようとした瞬間、「先生、右折です」と言われて急いでハンドルを右に切ったところ、目の前に患者さんの家が現れた。何事も無かったかのように家の中へ入ると、「先生、暑いところご苦労様。すみませんねえ、わざわざ往診してもらって」とニコニコした認知症の患者さんが待っていた。
家族が「2カ月前までは、自分で運転して通院していたのに、道を間違えたり車の運転も危なくて......」と言った時、隣の看護師がこちらを見て笑った。診察を終えて、「近い所ですから気になさらずに、いつでも往診に来ますよ」と家を出て、車を発進させたところ、8号線とは反対方向に走り出していた。午後の診察時間にギリギリ間に合ったのは、同乗してくれた看護師のおかげであったのは言うまでもない。
今年はコロナ禍の影響で、研究会も学会もリモートによる参加が増えたため、迷子になる機会が減っているが、自粛が長引き、スマホの機能により自分で考えなくても簡単に目的地へ着くことができる便利な時代になれば、方向音痴に拍車が掛かり、海馬が更に痩せて、家に帰れなくなるのではないかと心配している毎日である。