人間の嗅覚は不思議である。においが妙に昔の記憶と繋(つな)がるのは良くあることだ。
特定のにおいが、それに結びつく記憶や感情を呼び起こす現象は、プルースト効果と名づけられている。フランスの作家マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』という小説の中で、主人公がマドレーヌを紅茶に浸した際、その香りで幼少時代を思い出す場面があり、その描写が元になっているということである。
嗅覚は五感の中で唯一、嗅細胞、嗅球を介して、本能的な行動や喜怒哀楽などの感情を司る大脳辺縁系に直接つながっているので、より情動と関連づけしやすいためと言われている。
かなり以前の話になるが、秋に行われたとある学会参加で北海道を離れ、訪れた先で街を歩いていると、甘い香りが鼻をかすめて何とも懐かしい気分になったことがあった。その時はにおいの元が何か分からずにいたのだが、二度、三度と同じ体験をするうちに、それが金木犀(きんもくせい)によるものであることが判明した。
古くは悪臭を抑制する目的で、そのにおいに負けないくらいの強い香りを放つということで、かつての水洗ではないトイレの近くに植えられるのが日常的であったようである。また、遠くまでにおいが拡散しやすいという特徴もあるそうだ。
香りのその強さから苦手という人も結構いるらしいが、自分は嫌いではなかった。ただし、学生時代まで北海道を出たことがなかったこと、道内では金木犀の花を見た記憶が一切なかったこと(実際に庭植えでの北限は仙台か盛岡くらいと言われているそう)から、懐かしさがどこからくるのか皆目見当がつかなかった。もしかすると、大昔の祖先の記憶の中で強烈にそのにおいが残り、DNAに染み込んで私に伝わっているのではないか、と勝手な妄想をした。
暗記の際に特定のにおいを嗅ぎ続けて、試験の時にもその香りを染み込ませた衣服を着たりハンカチを身近に置いたりすれば、香りが試験の回答に必要な記憶を呼び起こしてくれるということもあり得る由。また、認知症の方に過去の想い出と結びついた香りを嗅がせると、それまでは思い出せなかった家族のことがよみがえってきた、という報告事例もある。このように、プルースト効果を活用すれば、医療にも貢献できる可能性があるのかも知れない。
更に言えば、心地よい香りを纏(まと)って異性に会うと、その香りの印象を相手の記憶に植えつけることとなり、その人が別の場所で同じ香りを嗅ぐだけで自分を思い出してもらえる、つまり、直接会っていないのにその香りによって自分の存在を思い起こさせる→気になる→好意を持つようになるという、恋愛技術にも応用範囲を広げられるらしい。
ある時、自分の子ども時代の金木犀と接する機会の有無を、耳は遠くなったが記憶はまだしっかりしている母親に確認をすると、私の自宅にはなかったものの、年に数回訪れた祖母宅のトイレに『キンモクセイの香り』が使用されていたという事実が判明した。内地出身の彼女が好んで使っていたようだと。
調べてみると、金木犀が中国から日本に渡来したのは江戸時代と推定されるとのこと。はるか遠いご先祖様の頃には身近に存在していなかった可能性が高く、遺伝子にすり込まれた記憶などといったカッコつけたものではなかった。至極単純な、幼い時分のトイレの芳香剤の記憶であったと知って、少々気恥ずかしくなった。しかしながら、同時に優しかった祖母との思い出がよみがえってきて、心の中は温かなもので溢(あふ)れた。