私は犬が怖い。医学的には恐犬症(cynophobia)と言うらしい。物心ついた頃から犬を見ると底知れぬ恐怖に襲われる。
医学部時代に友人と街を歩いていたら、事もあろうに放し飼いの犬が通りの角から現れ、私達の方に駆け寄ってきた。私は一目散に逃げたが、歩道の段差で転んで大けがをした。しかも、転んだ拍子に新調したばかりの革靴の底が完全に剝がれて抜けてしまうという始末。友人は犬をナデナデして制止し私を守ってくれたが、腹を抱えて笑い転げていた。しかし、その様子を目撃して以来、私の犬恐怖症が本物だと理解してくれた。
実家に帰った時、なぜこんなにも犬が怖いのか両親に尋ねてみた。すると小さい頃に2回、犬に咬まれたことがあるという事実が判明。1回目は頰を、2回目は手を、どちらも深く咬まれたそうだ。自分では何の記憶もない幼少期のことだ。こういうのもPTSDの範疇(はんちゅう)に入るのだろうか。
忘れもしない2012年10月14日(日)、佐伯市の病院で土日の当直をしている時、携帯に妻からメッセージが入った。
「子ども達が犬を飼いたいと言うので、今日予約しました! ヨークシャーテリアの子犬です♪」
主人が不在時の強行採決である。
医学部の同級生である妻は、学生の頃から私の犬嫌いは良く知っているはずなのに、一体どういうつもりなのか。そう言えば、彼女の実家は以前から犬を飼っていた。結婚前に実家に招待された時、玄関にお犬様が鎮座しており、私は門をくぐることができず、右往左往している様子を見て妻はニヤニヤ笑っていた。そうか! 妻は犬好きで、いつかタイミングを見て、犬を飼いたいと思っていたに違いない。そして子ども達の賛同を得て、賛成多数で可決されたのだ。
当直明けに恐る恐るペットショップをのぞいてみると、確かに「売約済み」の貼り紙のついた生後2カ月に満たないヨークシャーテリアの子犬がガラス越しにこちらを見ていた。
(こいつがうちに来るのか......これは困ったことになった......)
かなり長い間、逡巡(しゅんじゅん)しながらその子犬を遠巻きに見ていたら、ずっと私の様子を見ていた店員が近寄って来て、「ヨークシャーテリアがお好きなんですね!?」と声を掛けてきた。
(そんなんで見ている訳じゃないんや! こっちは一大事なんや!)と言いたい気持ちをグッと抑え、「この犬は川野が予約している犬ですか?」と問うと、「そうです! あっ、もしかしてこの子の飼い主さんですか!?」
私がその質問に回答する間もない素早さで店員はケージの鍵を開けて、「良かったねー、パパが見に来てくれたよ! ハイ、抱っこしてもらって!」と言って、犬恐怖症の私の胸に子犬を渡してきた。500グラムくらいしかない子犬を落とせば命の保証はない。私は身動きもできないまま血の気が引いていくのを感じた。40年以上、犬なんて触ったこともない私の胸に犬がいる。心臓はバクバク。卒倒しそうな私の様子に気づき、店員は子犬をケージに返してくれた。
その翌週、本当にわが家に子犬がやってきた!
片手で抱ける程小さい彼(オスである)に、私はかなりビビッていた。何とか悟られないように平静を装い生活していた。程なくして、彼は私を群れの一員と理解し、私にもしっぽをフリフリするようになった。
「犬嫌いには懐かないんだけどねー」と妻は言うが、彼は私を飼い主の一人として認識しているようだ。
私のPTSD克服プログラムは、彼の愛くるしさゆえ順調に進んだ。もうすぐ5年が経とうとしているが、今では思春期真っ最中の長女・長男よりも"愛犬"の方が私の相手をしてくれている日々。抱っこはもちろん、もうペロペロされても大丈夫。四十にして犬に惑わず。
先日、中学生の長男が、アレルギー性鼻炎がひどいので耳鼻科で血液検査を受けた。その結果、イヌ上皮の特異的lgEがクラス6(最高値)と判明。本物のイヌアレルギーの長男とイヌアレルギーを克服した私。人生とは何とも不思議なものだ。
(一部省略)
大分県 大分県医師会会報 第753号より